初心
ちょうど桜の花もまだいくらか残っていて、お天気もよろしく、素晴らしい日でありました。
京都駅で、大きな広告の看板に、「還愚」という字が書かれていました。
しかもきちんと「げんぐ」とルビもふっています。
「愚に還る」とは、どういうことかなと思ってよくみると、仏教大学の広告でありました。
なかなか良い言葉が書かれていましたので、帰りに書き止めてきました。
「この先どうなりたいのか。
進みたい道が見えないことだってある。
前へ進むために、
まずは自分自身を見つめよう。
急がなくたっていい。
ゆっくり立ち止まって、じっくり向き合って。
そこには、
認めたくない自分が、いるかもしれない。
これまで気づかなかった自分も、
いるかもしれない。
どんな自分も、否定なんかしなくていい。
いまそこにいる、
ありのままの自分を認めれば。
これまで見つからなかった目標も、
そこに至までの道筋も、きっと見えてくる。」
良い言葉だと思うのと同時に、自分も大学に関わっていると、大学の宣伝に苦労されているのだとも思いました。
入学式は、総長である私が佛前に焼香して三拝することから始まります。
入学生の紹介があって、磯田文雄学長の式辞であります。
学長は、お祝いの言葉の後に、まず本学の建学の精神に触れていました。
建学の精神は「禅的仏教精神による人格の陶冶」なのです。
そして、
「その目的は臨済宗の宗祖である臨済禅師が「随所に主と作れば、立処皆な真なり」と言われるように、どのような状況であっても主体的に行動できる自立性・自律性を養成することです。」
と話してくれていました。
学長はそのあと、
「花園大学は国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」の基本的哲学である「誰一人取り残さない -leave no one behind-」 を基本に、学生一人ひとりを大切にしたていねいな教育に取り組んでいます。」
と述べて、それから学長が新入生に心に留めておいて欲しいことを三つあげていました。
まずは、「初心忘るべからず」です。
「今の気持ちを大切にし、よく覚えておいてください。
四年後の自分に手紙を書いておいてもいいでしょう。
なぜ、今ここにいるのか。
何をしようと考えているのか。
そして、四年後に今日の自分とその時の自分を比較し、四年間の学生生活を振り返ってください。」
と語っていました。
それから
「第二に、困ったことがあり思い悩むときは、周囲の人と対話を重ねてください。
家族、友人、先輩、そして、花園大学の教職員。
周囲の人と話したとしても直接の答えは与えてくれないかもしれません。
引き続き考え悩むかもしれません。しかしながら、対話をすることによって、自分の考えが整理できます。」
というのです。
そして「第三に、「分かち合い」を大切にしてください。」ということでした。
「悲しみや苦しみに暮れる人と、悲しみや苦しみを分かち合えば、悲しみや苦しみに暮れる人は、自分が他者にとって必要不可欠な存在であることを実感できます。」ということです。
どのことも学生生活を送る上では大切なことであります。
引き続いて総長の祝辞であります。
今回私は、建学の精神について話をしました。
ちょうど学長が触れてくれたことだったので、それを受けて、
「本学の建学の精神は、「禅的仏教精神による人格の陶冶」であります。」
と述べて、この言葉は耳で聞いてもなかなかその意味が分かりにくいと話をしました。
禅的仏教精神というのですから、仏教のさまざまな教えの中でも禅を学んで、それによってお互いの人格を陶冶していくことを目指しているのです。
この人格の陶冶の「陶冶」という言葉も普段あまり使わないものです。
『広辞苑』には「人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること」と説明されています。
「禅的仏教精神」と謳われているように、この大学はもともと禅を学ぶ為の学校であったことに触れて、今日では、仏教学科のみならず、文学、歴史、心理学や福祉を学ぶ大学となっています。
しかし、どんな分野でもあっても、禅の教えを学ぶことには大きな意義があると述べました。
なんとなれば、禅は長い伝統のある教えです。
千数百年の歴史の検証に耐えてきたものです。
それだけに信頼に足るものです。
そして今や世界の人たちにも高く評価されているのです。
我が国においても日本文化の中枢でもあります。
そこで学生さんたちには、なんの分野を学ぶにせよ、本学でこの禅の教え、禅の精神に触れていただきたいと願うと伝えました。
それから「人格の陶冶」とは、「人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること」いう『広辞苑』の解釈にふれると、私は仏教学者の高楠順次郎先生の言葉を思いますと話をつなげました。
高楠順次郎先生は『広辞苑』にも「仏教学者。広島県生れ。本姓、沢井。東京外語校長・東大教授。英・仏・独に学び、西欧のインド研究の方法を日本に定着させた。「大正新脩大蔵経」を監修。文化勲章。(1866~1945)」
と解説されている方です。
門下には宇井伯寿先生、木村泰賢先生、織田得能先生、辻直四郎先生など多くの錚々たる仏教学の逸材を育てた方でもあります。
武蔵野大学の母体である武蔵野女子学院を設立された方で、数年前に武蔵野大学に講演に行った折に掲示されていた言葉を紹介しました。
それは「人間の尊さは可能性の広大無辺なることである。その尊さを発揮した完全位が仏である」という言葉です。
「人格の陶冶」とは、「人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること」という意味と通じるものがあります。
この言葉を紹介しておいて、
「仏とは「無限の可能性を最大に発揮した人」であるというのであります。
みんな誰しも「無限の可能性」を本来持っているのです。
この「無限の可能性」を禅では仏心、あるいは仏性と言いました。
ところが、お互い自分で自分を見限ってしまうのです。
「無限の可能性」を持ちながら、自分でこんなものだ、無理だと見切りを付けてしまうのです。
もっともいくら無限の可能性があるといっても私が今から大谷翔平さんにはなれませんし、百メートルを九秒で走ることも不可能です。
しかし、人格の向上ということでは、まだまだ可能性があるものです。」
と話をしたのでした。
最後に
「私は今まで長年禅を学び、坐禅の修行を続けていますが、今も新たな発見があり、喜びがあります。
人間性、人格を高めてゆくことには無限の可能性があります。
どうぞ、本学で大いに学び、どんな分野の学問であろうと、禅の教えにも触れてお互いに人格を向上させてゆくように務めてまいりましょう。」
と結んだのでした。
総長室に帰って、理事長や、学長、学園長さんたちといろいろ懇談をして下校しました。
校門のところでは、保護者の方もまじえて多くの学生さんたちが記念の撮影をされていてとても混み合っていました。
その隅っこを通り抜けて最寄りの円町の駅から電車に乗って京都駅に向かいました。
若い希望に燃えた学生さんたちに接すると、自分の初心を思い起こします。
よい刺激をいただくことができました。
横田南嶺