わからないことの尊さ
竹村先生は『華厳五教章』のご講義であります。
小川先生は、大慧禅師の『宗門武庫』のご講義であります。
本文を読み進める前に、小川先生は、私が二月十八日の管長日記に書いた「一生、なにもわからぬ」という話を取り上げて深い考察をなさってくれました。
たいへんに有り難いことでありましたが、本文を読み進める時間が足らなくなってしまって、申し訳ない思いでもありました。
前回のご講義で小川先生が『大慧普説』から、次の言葉を紹介されました。
「来りて我が禅に参ぜんには、須く一生不会を?取(へんしゅ)して始めて得(よ)し。」という一言を、小川先生は、
「一生、何も解らぬ」という在り方を、しゃにむにモノにして、はじめてよいと訳されたました。
「一生不会」、一生なにも分からぬ、この言葉に心打たれて文章を書いたのでした。
今回は、更に『祖堂集』にある南泉和尚の言葉を紹介されました。
この言葉には、私も忘れがたい思い出がございます。
小川先生のご著書『語録の思想史』に訳文がありますので、そちらを引用させてもらいます。
「近頃は禅師ばかりがむやみに多く、「癡鈍」の者はひとりとして見あたらぬ。
おまえたち、まちがった修行をしてはならぬ。
究極の一事を体得したければ、仏が未だ出世しておらず(すなわち「仏法」なるものが未だ現れておらず)、いかなる名辞・概念も存在せず、ひそかに“道”がはたらいて何びともそれに気づかぬところ、そういうところで体得して、はじめていくらかはモノになろうというものだ。
だから、「祖仏はそれ(“道”)が有ることを知らず、狸奴白牯(山猫および去勢された農耕用の雄牛)のほうが逆にそれ有ることを知っている」というのである。
何故かといえば、狸奴白牯にはあれこれの知識や理屈が無いからである。
そこで、「如如」とよんだときには、はや(“道〟ならざる)別物に変じている、だから異類(畜生)の道を歩まねばならぬ、というのである。
五祖弘忍大師の門下などは、五百九十九人までがことごとく「仏法」を会得しており、盧行者(のちの六祖恵能) ただ一人が「仏法」を会得していなかった。
かれはただ“道”を会得していただけである。諸仏が世に現れたところで、することはただひとつ、人に“道”を会得せしむるのみだ。」というものです。
「近頃は禅師ばかりがむやみに多く」というのは、括弧付きの「禅師」であり、知らざる最も親しというのとは対極にあるものです。
わずかの見識でよしとしてしまっている者であり、本来説くことも分けることもできない「道」をそのまま体得するのではなく、言葉や概念で解釈してしまっている者でありましょう。
逆にここでいう「癡鈍」の者というのは、「知らざる最も親し」な者であり、全一であり無分節なる道をそのまま体得している者のことをいうのであります。
ここで問題としたいのは、「狸奴白牯、却って有ることを知る」というところであります。
「狸奴白牯」というのは、入矢義高先生の『禅語辞典』には、
「狸奴」は山猫のことで、「狸奴白牯」で「山猫と去勢した耕牛」のことであり、入矢先生は「仏法の「ぶ」の字も知らぬしたたかな生活者」と解説されています。
小川先生の解説では、ここでいう佛というのは、「近頃は禅師ばかりがむやみに多く」という括弧付きの「禅師」と同じようなものであり、狸奴白牯は高次元の意味での「癡鈍」の者を指しているのであります。
この言葉は『碧巌録』の第六一則にございます。
山田無文老師が『碧巌録全提唱』の中では、
「三世の諸仏は有ることを知らず、狸奴白牯、却って有ることを知ると」いう言葉を提唱して、
「また南泉禅師が言われておる。
三世の仏さま方もその真理のあることをご存じない。真理の真っただ中におれば、有ることを知るはずはない。
猫や牛や、狸や狐がかえって有ることを知っておる。
それは分別があるからじゃ。
いいと悪い、悟りと迷いと、分別があるからだ。
真理の真っただ中におれば真理を忘れておる。
真理を離れておるから真理の有ることが分かるのだ。」
と説かれています。
これは無文老師の場合、「三世の諸仏、有ることを知らず」ということを高次な意味で解釈されています。
この言葉は、『従容録』の第六十九則にもございます。
余語翠厳老師の『従容録』には、この言葉と道元禅師の話が説かれています。引用させてもらいます。
「ところで、道元禅師が比叡山で修行をしておられる時に、疑問を生じたわけです。
それは、本来本法性、天然自性身という言葉で伝えられていますが、簡単に言うと、人間は本来仏であるというにもかかわらず、どうして修行せねばならないか、ということです。
そういう疑問を持って、叡山のいろいろな師匠たちに尋ね歩いても満足な答えをもらうわけにいかなかったが、三井寺の公胤僧正という人を訪ねてこの問いをした。」とあって、この僧正の薦めで建仁寺の栄西禅師のもとを訪ねます。
そこで「建仁寺へ行って「本来仏であるのに、なぜ修行しなければならんのか」という同じ質問をして、その時にもらった答が、これだったのです。
「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」という、これが栄西さんの答です。
それをどういうふうに受け取られたかは書いてないのですが、この答をもらって道元さんは禅門に鞍替えをされるわけです。」
と書かれています。
小川先生は、今回私の『悩みは消える!』に引用した立花隆さんの『死は怖くない』にある言葉、「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンととけて自分が無くなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」という一文を引用されて、自分が海であることを自覚して生きることに注目されました。
大いなる道を言葉や理論で解釈するのではなく、道とひとつになってしまって、そんな無限大の道を自覚して生きるというのであります。
この言葉について思い出があるのは、もう八年前に浜松の方広寺に住職研修会の講師として講演に行った時のことです。
当時の管長大井際断老師が、提唱をなさっていました。
老師はその時に百歳でありました。
私も自分の講演だけでなく、大井管長の提唱も拝聴しました。
その提唱の中で、「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」という言葉を繰り返し説かれました。
特に「狸奴白牯」を繰り返されるのでした。
聞いているうちに、私自身がわずかな見識で良しとしてしまって、こうしてよその本山にまで話にきてどうするのか、そんなことでは括弧付きの「禅師」になっていないか、「狸奴白牯」の真智に遠く劣るぞと説かれているような気がして、だんだんと背筋が寒くなったのでした。
「狸奴白牯却って有ることを知る」の一言、以来心に深く刻んでいるのであります。
わからぬことの尊さを肝に銘じるのであります。
横田南嶺