我が立つ杣
意味を訳しますと、無上正等正覚ということです。
「無上の真実なる完全な悟り」ということです。
原始仏教から大乗仏教まで、広く仏教が目的とする悟りの意味で用いられているものです。
かの伝教大師最澄は、西暦七八八年(延暦七)、比叡山に根本中堂を建立なさった際、
「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ」
と詠われたのはよく知られています。
この上無いの覚りを成じたみ仏たちよ、わたしの入り立つこの杣山(そまやま)に、どうか冥加(みょうが)をお与えくださいという意味であります。
「冥加」は、『広辞苑』に
「知らず知らずのうちに神仏の加護をこうむること。
目に見えぬ神仏の助力。冥助。冥利。」
と解説されています。
どうか目に見えぬご加護を賜りますようにという願いであります。
最澄は、七六七年のお生まれですから、このときは、まだ二一歳なのでした。
さて『我が立つ杣』という横山祖道老師の本がございます。
これは昭和五七年に刊行されたものです。
横山老師には、『草笛禅師 横山祖道 人と作品』という本もあって、こちらは昭和五六年の刊行です。
それらの本を私は高校時代に愛読していました。
そして、高校生の頃にこの横山祖道老師という方に憧れていたものでした。
先日知人からこの横山祖道老師の本をいただきました。
『碑のほとり乃哥』というものです。
「草笛禅師横山祖道老師の世界 坐禅 風雅 人生」というサブタイトルがあります。
著者は横山祖道老師、柴田誠光老師の編となっています。
二〇二三年三月十五日の発行になっています。
この本をいただいて感激しました。
まずこの今の世に、横山祖道老師の本が出たことに感動しました。
そして私自身改めて横山祖道老師の言葉に触れることができることにも感謝し感激したのです。
横山老師という方がどんな人かというと、『我が立つ杣』の巻末にある年譜から紹介します。
明治四十年一九〇七年のお生まれです。
宮城県の生まれで、北上川のほとりで生まれたとご自身は仰せになっています。
二十二歳のころに、
「毎夕城跡の山に登り夕空と対面し物思いに耽る日課であった。
ある夕べ、夕焼と対面して宇宙を直観し、”万象離念”のヒントを得る。
一方、そのころ 「正法眼蔵随聞記」(岩波文庫版)を読み非常な感銘を受ける。」
と書かれています。
そして二十八歳の頃から
「具体的に坐禅を始める。ある日、狐ヶ森の草山にて坐禅をしていて、雉が目前にでてきて坐禅をにらんだという体験をする。
これにて “只管打坐”の容易ならざるものであることを直観する。」
と書かれています。
昭和十二年 三十一歳で父が急逝し、「仏典と親しむ日々が続き、七月二十一日から二十五日まで本山総持寺で開かれた参禅会に赴く。
この参禅会で澤木興道老師の提唱に接し出家する予感を抱き帰郷。
二ヵ月間の思惟の結果、澤木老師の許に出家。
橋本恵光老師の許に預けられる。」
という経緯を経て澤木興道老師のもとで出家されたのでした。
三十二歳、「一月、京都で得度。 出家名は祖道、号は耕雲。
三月、伊豆の最勝院に安居二年。
坐禅三昧の日日を送る。
昭和十五年(一九四〇年) 三十四歳。五月、本山総持寺入りし二年修行。」されたのでした。
四三歳で京都の安泰寺に入り、七年半そこで毎月澤木老師を迎えての摂心をして修行されました。
内山興正老師とご一緒だったのでした。
五一歳で安泰寺から仙台に移住して一年滞在し、そのあと五二歳で信州小諸に住まいました。
小諸懐古園で草笛を吹きながら坐禅の日々を送るという暮らしをそのあと、二十二年間実践されたのでした。
藤田一照さんと話をしていた折に、一照さんはまだ出家される前に、この小諸で横山老師に出逢ったという話をうかがいました。
私はお目にかかることができなかったので、うらやましく思ったものでした。
『我が立つ杣』には、横山老師が聞き書きした澤木老師の言葉がいくつも書かれています。
「一匹でも龍ならよい象ならよい。
質を良くする、これ曹洞の建前。太祖大師又質を重んず。
大人はたくさんのまちがいを持っているから、それをなおすのに骨が折れるのであって、決して坐禅そのものがむずかしいのではない。
人間につくりごとのないのが一番よい。
坐禅している形は他のいかなる形よりよい。
坐禅しているのを見て言うた子供の言葉「ほとけさんのことしている」
蔭のない生活。汽車に乗れる生活。 道徳必用。坐禅の生活体系をなせる生活は蔭のない生活である。」
という言葉など、どれも味わいが深いものです。
『碑のほとり乃哥』には横山老師の言葉がたくさんございます。
二十二歳の頃の夕焼け体験について、
「夕焼は夕焼を知らず、然はあれども夕焼なり。
夕焼かくの如くんば万象は一の夕焼の如し。
夕焼無我、 万象無我(註無我が仏)。
「夕焼は夕焼を知らず」のこの不知が無我。
そして山は山を知らずに山であるということは、山は全く山に成り切っている状態であります。
たんぽぽは自分はたんぽぽと知らずにきれいに咲いているのは、たんぽぽはたんぽぽに成り切っている状態で、 万象は各々皆自己に成り切っているのであります。
仏道はこの無我をお手本として自分も無我になる法であるから、自分も無我となるには是非とも自分に成り切らねばならないのであります。
其れで先師曰く「自分が自分に成り切ったら成仏」と。」
という風に分かりやすく只管打坐の精神を説かれています。
「古里の夕焼 うるわしきがごと 万象うるわし」という歌もございます。
「その昔山にて坐禅していたら雉子でてきて坐禅をにらみ」
という歌もあります。
これが二十八歳のときの体験です。
「ある日山遊びに行き、山で坐禅をしていた草むらから雉子が目の前に出てきて、その坐禅を一、二分であろうかにらんでいた。
この体験から雉子は坐禅を人間とは思わなかった。
坐禅坐相は超人間法、超理性法、無念無想(離念)の姿、即ち宇宙と合同であることと、雉子は坐禅を敵と思わなかった、即ち無敵(大慈大悲(母の情))であること。
この二つを雉子から教わり、坐禅坐相は無念無想即大慈大悲であると確信したのでした。」
と書かれています。
井上球二先生の『異色快人物漫訪』という書物に横山老師のことが書かれています。
「私の寺は太陽山青空寺、この地上は私の境内」という言葉があります。
所謂お寺には住職することなく、この広い天地を我が伽藍として、和歌を作り草笛を吹いて只管打坐の暮らしを全うされたのでした。
『異色快人物漫訪』には、横山老師のお弟子であり、この本を編集された柴田老師のことも書かれています。
「この人はアルバイトで会社勤めをしながらの修行とのことであるが、「あなたをして、この人の下で修行しよう、と老師の所へ来さしめたものは何でしたか」と、これは私の訊きたいところである。
「それはですねェ、私が安泰寺におりました時、七日間老師がお話して、坐禅とはこういうもんだとやったんですね。
その坐禅の姿を見て、俺みたいな者はこの人に付かなければ駄目だ、と思って、付いたんです。あとは何も有りません」
そう言われて、かもいに掛けてある老師の坐禅姿の写真を改めて見上げると、なるほど!さもありなん、と頷けるものがある。」
と書かれています。
横山老師の本をいただいて、私も横山老師の本を読みながら坐禅していた高校時代を懐かしく思い出したのでした。
横田南嶺