内観
①〔仏〕精神を集中して自己の心の中を観察すること。また、その修行。
②〔心〕自分の意識体験を自ら観察すること。内省。
という二つの意味が書かれています。
『禅学大辞典』を調べると、
「内省によって心の内に真理を観察する修行法。自己省察によって自己を見つめる修行。」という意味と、
「白隠が白幽子から伝授された健康法。」という意味があります。
禅の修行で「内観」というと、この白隠禅師の健康法を指すことが多いのです。
岩波書店の『仏教辞典』には、白隠禅師の著書『夜船閑話』の説明として、
「徳川時代の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)の著した仮名法語。
1757年(宝暦7)刊。
白隠は修行中に弁道究理が度を過ぎて、ひどい病気になった。
そのとき洛東白川の白幽真人に<内観の法>を授かり、身心ともに健やかになって、大悟徹底することを得た。
そこで後年、門人たちが菩提心(ぼだいしん)に燃えながら、中途で肉体の病気や、いわゆる禅病に悩むのを見て、これを救おうとして
「一身の元気を臍輪・気海・丹田・腰脚・足心の間に充たしめる」内観の法を説いたのが本書である。
これは<気>を練ることによって身心を健康にする<神仙長生不老の術>であり、修禅者は必ず参禅とともにこの内観を兼修すべきであるとすすめる。」
と書かれています。
ここにあるように、まさに「一身の元気を臍輪・気海・丹田・腰脚・足心の間に充たしめる」ものであります。
呼吸と共に、意識をしながら、自分の元気、気力が、へその下、下腹部、腰、脚、足の裏に満ちるのを観察するのであります。
それと共に、『広辞苑』には、「内観法」というのも解説されています。
こちらは、
①心理学の研究方法の一つ。自分の内的な体験を報告させて、それに基づいて心の世界を探る技法。構成主義心理学の主要な方法。
②吉本伊信(いしん)(1916~1988)が創始した心理療法。道場で1週間程度自らの心の中を観察し、自他についての肯定的な認識を作り出すことで、心の不適応状態からの回復を図る。
という二つの意味があります。
この二番にある吉本伊信先生の内観法というのもあります。
吉本先生は、大正五年のお生まれで、昭和六十三年にお亡くなりになっています。
浄土真宗の僧侶でもありました。
もともと内観は、浄土真宗に古くから伝わっていた「身調べ」というものから、宗教色を除いて吉本先生が独自に万人向けのものとした修養法なのであります。
この内観の法を現代において広く薦めておられる青山学院大学名誉教授の石井光先生にお目にかかるご縁をいただきました。
石井先生は、学生の頃から円覚寺の学生坐禅会に熱心に通っておられたそうなのです。
坐禅の修行もなさりながら、この吉本先生の内観にめぐりあって、日本内観学会、国際内観学会の要職もお務めになっているのであります。
いただいた『内観への誘い』の中に、内観の具体的な方法が書かれていますので紹介します。
「内観は自分がまわりの人に対してどうだったかということを、その人から「していただいたこと」「してさしあげたこと」 「迷惑をかけたこと」という三つの質問で調べます。
まわりの人というのは、自分の最も身近な人、例えば母親、父親、祖父母、兄弟姉妹、配偶者、子供等です。
もちろん友人や恋人、仕事関係の人に対して調べてもいいでしょう。
今、特に人間関係で悩んでいる人に対して調べることも重要です。
それをその人との出会いから現在まで、あるいは別れまでを、過去から現在にさかのぼって調べていくのです。
普通は初めに調べるのは、お母さんに対する自分です。
母親は大抵の場合、子供のときに最も身近にいてお世話になった人だからです。
お母さんがその頃同居していなかったという人はお祖母さん、あるいはお父さん、お姉さんといった人から始めます。
そして期間は例えば生れてから小学校に入学するまで、小学校低学年、高学年、中学時代、二〇歳まで、二五歳まで、三〇歳まで・・・・・・というふうに調べていきます。
ですから、普通は、生れてから小学校入学までに
一、母親からしていただいたこと
二、母親にしてさしあげたこと
三、母親に迷惑をかけたこと
から始めます。
この三つの質問に一時間から二時間取り組んで、具体的な答えを探すのです。 一〜二時間後、面接の先生が内観をしている人のところに来て、今の時間どのようなことを調べ、 思い出したかを尋ね、内観者はこれら三つの質問について、思い出したことを報告します。
すると面接者はお礼を言って、次にいつの時代を調べるかを聞き、あるいはいつからいつまでを調べてくださいと言って去っていきます。
普通は、次は小学校三年生までの期間です。
そしてまた一〜二時間程したら内観者を訪ねて、こんどはどのようなことを思い出したかを尋ねます。
このようにして一週間の間、内観者はずっと三つの質問に取り組みながら、母親、父親などに対しての自分を調べていくのです。」
というものなのであります。
私も高校時代に一度一週間この内観の修行をさせてもらったことがあります。
吉本先生のところではなかったのですが、三重県にある合掌園というところで、水野秀法先生のもとで行いました。
この水野先生という方も浄土真宗の僧侶で、私が今までめぐりあった宗教家の中でも優れたお方でありました。
その頃の内観というと、罪を犯した人や、非行に走る少年の更生に用いられることが多くございました。
私などのように仏教を学び坐禅をして、修行の一環として求めてくる者は稀だったので、水野先生から目をかけていただいていろいろとお部屋でお話をうかがったのでした。
禅の修行とは異なる、念仏の信に徹した方のお姿を拝見することができました。
いずれにしろ、禅の修行とは随分趣を異にするのですが、これも素晴らしい修養法であります。
禅の老師方の中でも、ご自身で内観をなされた方もいらっしゃると聞いています。
また最近お目にかかった老師は、公案の修行の前に、内観の修養をさせていると仰せになっていました。
石井先生と共に、長野で内観研修所を開いていらっしゃる中野節子先生もお越しくださいました。
お二方とも素晴らしい人格者であると感じました。
お目にかかって内観の修養をさせてもらった高校時代を思い出したのでした。
横田南嶺