木鶏に似たり
講談社学術文庫の『荘子』全訳註にある現代語訳
を引用してみます。
紀渻子(人の姓名)という人が、ある王の命を受けて闘鶏を飼育していた。
十日経ったところで王がたずねた。
「どうだ、鶏はもうよいかな。」
「いいえ、まだです。まだむやみに強がって気負っております。」
それから十日経って王はまたたずねた。
「いいえ、まだです。ちょっとした物音や物影にもいきり立ちます。」
また十日経って王はまたたずねた。
「まだです。 他の鶏を見ると、ぐっとにらみつけて血気にはやります。」
さらに十日経って王はまたたずねた。
「はい、もう完全無欠です。他の鶏が鳴き声を立てても、様子を変えることがありません。
遠目には木彫りの鶏とさえ映ります。本来の徳が欠けるところなく具わりました。
他の鷄も相手になろうとするものはなく、背を向けて逃げ出すことでしょう。」
という話であります。
そこで『広辞苑』にも「木鶏」は
「木製のにわとり。」という意味と共に、
「強さを外に表さない最強の闘鶏をたとえる。」と解説されています。
安岡正篤氏が、かの名横綱双葉山にこの木鶏の話をしたのだそうです。
この話に感銘を受けた双葉山関は、安岡氏に「木鶏」と書いてもらい、額に入れて毎日その額の前に静坐して木鶏の工夫をしていたのでした。
そうして双葉山は、六十九連勝を成し遂げたのでした。
しかし、連勝はそこで止まり、次に敗れてしまったときに、安岡氏に電報を送りました。
そこには、「イマダモッケイニオヨバズ」と書かれていたそうなのです。
よく知られた話であります。
この木鶏の話をもとにして、致知出版社では、月刊『致知』をもとにして人間学を学ぶ勉強会を木鶏会と言っています。
会社では、社内木鶏会というのが行われているのであります。
中学や高校でも行われたり、企業や学校にかかわらず、地域で同じ志をもった人達が学んでいることもあります。
私のところの修行道場でも毎月一回必ずこの木鶏会を行うようにしています。
どういう風に行うのかというと、各自が月刊『致知』のなかにある記事を読んで感想文を書きます。
そして四人ずつのグループを作って、その中で、一人ひとり感想文を読んで発表します。
一人が感想文を発表すると、他の三人は、感想を述べます。
このときに決まりがあって、必ず「美点凝視」といって、その感想文のよいところを褒めるのです。
褒めてみんなで拍手します。
そうして代表として発表する人を決めます。
最後に代表者がそれぞれみんなの前で感想文を発表します。
それを聞いて会社なら社長、学校なら先生、私の寺ならば私が講評します。
これも必ず「美点凝視」、よいところを見つけて褒めるようにします。
こういう会なのですが、これを行うことによって、まず記事を丹念に読むようになります。
そして感想文を書きますので、文章を書く力もつきます。
それからみんなの前で発表しますので、人前で発表するということにも慣れるものです。
美点凝視ですから、決して叱られたりすることがありませんので、自信がつきます。
これは禅の修行をするにもよいと思って取り入れてもう何年来行ってきているものです。
普段禅の修行では、叱られたり否定されることが多いので、月に一度はこういう会もよいかと思っているのです。
この木鶏会が国会にもあるということをかつて聞いたことがありました。
国会木鶏クラブというのであります。
元文部科学大臣の下村博文先生が主になっている会であります。
木鶏クラブといっても、各自が月刊『致知』を読んで、感想文を書いて発表するというものではなく、毎回講師を招いて話を聞く会なのであります。
昨年下村先生と同じ講演会の講師を務めるというご縁があって、この度この国会木鶏クラブの講師として招かれました。
議員会館の会議室で話をさせてもらいました。
議員の先生というのは、とてもお忙しいと思いますが、熱心に聞いて下さったのでした。
よいことだ思ったのは、党派は関係ないということでした。
ですからいろんな政党の方がお見えになっていました。
私は、臨済禅師の教えについて話をしたのでした。
まず絵本『パンダはどこにいる?』の内容をスライドで紹介して、臨済禅師の教えから学ぶものを、
一 無位の真人 自己の素晴らしさに目覚める
二 随処に主と作る どんなところでも主体性を持つ
三 活溌溌地 いきいきと生きる
という三つにまとめて話をしました。
終わって記念撮影なども済ませて帰ろうとしたところ、ある議員さんから質問を受けました。
これからは多様性を認めてゆかなければならないと思って活動しているけれども、多様性を認められないという人をどう説得したらよいかという質問でした。
とても難しい問題であります。
じっくり考えて答えないといけないのですが、何せ帰り際で時間もありません。
「世の中にはいろんな考えを持った人がいるもので、人の考えを直すようなことはできるものではありません、そういう考えもあると認めて、自分はこう考えるということを真摯に伝えるしかないと思います」ということだけお伝えしたのでした。
多様性ということは、この頃よく耳にする言葉です。
坂村真民先生も「信念と信仰」という詩で、
いろんな木があり
いろんな草があり
それぞれの花を咲かせる
それが宇宙である
だから人間も
各自それぞれ
自分の花を
咲かせねばならぬ
それが信念であり
信仰である
統一しようとすること勿れ
強制しようとすること勿れ
と詠っています。
本当に多様性を認めるのであれば、多様性を認められないという人をも認めてあげることではないかと思います。
いろんな人が生まれ育った環境、受けてきた教育などによって、それぞれの考え方があります。
民族によって培われたものもあるでしょう。
いくら多様性が大事だといっても多様性を押しつけるようになると、それは多様性ではなくなると思うのであります。
いろんな木があり、いろんな草があるように、いろんな人がいるのがこの世界であります。
坐禅をしていても、熱心に坐禅しようとする人ほど、まわりのことが気になって仕方がないという場合があります。
一所懸命に修行している人ほど、まわりに不真面目な人、態度の悪い人がいると許せないという場合があります。
そういう熱心な方は、そんな不真面目な人を許せずにイライラしてしまうことがあります。
しかし、考えてみれば人間はそれぞれ自分の都合で生きているものです。
その人にしてみても、熱心な方からは不真面目に見えるかもしれませんが、そのような修行の場に来ているだけでも立派なものなのです。
その人はその人なりに生きているとみるしかありません。
人を自分の思い通りに変えようと思うのは傲慢であります。
思い通りにゆかないといって腹を立てたりしていては、修行にもなりませんし、木鶏の心境からはほど遠いものです。
やはり他人の言動や行動を気にするよりも自分自身をよく見つめることこそが修行なのです。
そのように自分自身をよく見つめて穏やかなこころでいれば、だんだんとそのまわりの人も善い影響をうけて変化してゆくかもしれないのです。
議員さんの場合は、なんとか多様性を認めてみんなが幸せにと願ってくれているのだと思いますものの、他人の考えはやはり尊重しないと難しいと思うのであります。
木鶏を学ぶ会に参加して改めて木鶏になることは難しいと学んだのでした。
横田南嶺