おのずからととのう
盤珪禅師は、十二歳のときに、『大学』の講義を受けて、そのなかにある「明徳」とは何か、大きな疑問を持ちました。
いろんな学者に聞いても分からず、ある儒者が言うには、そんな難しいことは禅僧が知っているから、禅僧のところへいって聞くがいい、と言ったというのです。
それで、ある禅宗の和尚に参じて、明徳はどのようなものかと尋ねると、明徳が知りたければ坐禅しろ、明徳がわかるまで坐禅しろと言われました。
そこで坐禅にとりかかりました。
独自に坐禅修行に励んで、最後には、一丈四方の牢屋のような小屋を作り、出入り口をふさいで、ただ食べ物だけを出し入れできるようにして、大小便も中から排泄できるようにして、ひたすら坐禅に徹したのでした。
あまりに極度に体を痛めて修行したので、お尻が破けて、杉原紙を尻に敷いて、取り替えては坐禅されました。
とうとう病に罹り、血の痰を吐くようになってしまいました。
更に食も喉を通らなくなり、七日程絶食、ついに死を覚悟しました。
明徳の解決ができずに死ぬのかと思っていたところ、あるときに
「ひょっと一切のことは不生で調ふものを、今日まで得知らいて、さてさてむだ骨を追った事」と気が付いたのでした。
「不生で全てが調う」というのはどういうことなのかというと、盤珪禅師は独特のお説法を残されています。
「今この説法を聞いている人が、みんな盤珪禅師の方を向いて話を聞いています。
意識のはたらきはみんな、目も耳も盤珪禅師の方へ向かっているわけです。
しかし、そんなときでも、後ろの方で烏がカーカー鳴く、雀がチュンチュン鳴くと、盤珪禅師のお説法を聞こうと集まっている人たちも、特別烏や雀の声を聞こうとは思っていないのに、ちゃんと烏の声はカーカーと聞こえるし、雀の声はチュンチュンと間違わずに聞こえています。
それが不生の仏心のはたらきであるというのです。
何も意識をしないのに聞いているというはたらきがあります。
これが仏心だと説かれました。
意識をしてあれをしよう、これをしようという心を生じる以前に、すでにはたらいているのです。
盤珪禅師はそれを不生の仏心と名付けたわけです。
「不生にして調う」というのは、こういうところなのであります。
さて、坂村真民記念館での講演を終えて帰った次の日に、小関勲先生にお越しいただいて、「ヒモトレ」の講習をしていただきました。
小関先生の講座は、実に数年ぶりのことであります。
修行僧達はみんな入れ替わってしまって、小関先生の講習を受けた者はもういなくなってしまいました。
このたび小関先生は、『動画でわかる ヒモトレ入門』という本を上梓されました。
この本の巻頭には、西園美彌先生との対談が掲載されています。
私は、西園先生からこの本を頂戴したのでした。
久しぶりに小関先生にお目にかかって教わりたいと思ったのでした。
今年の小関先生からの年賀状に、
「自己がたちあがると、自己は消えると知りました」という言葉が書かれていました。
とても興味深い言葉なので、実際にどういうことなのか学びたいと思ったのです。
小関先生は、普段米沢にお住まいなので、上京される折を教えていただいて、日程調整をしたのでした。
この本の終わりに小関先生は、
「ヒモトレは、何かを強化するためのトレーニング法でもなければ、何かを治すための治療法でもありません。
等身大の身体や違和感に気づくためのメガネのようなものです。
より等身大になったときに、そこから本当に必要なものや方向性が見えてくると思います。
こう言える背景には、等身大になることで見えてきた生命の力強さや、可能性を私自身、たくさん目の当たりにしてきた経緯があるからです。
ヒモトレはメソッドというより新しい価値観として必要な方々に届けられれば幸いです。
ヒモトレから観えてくる気づきや発見を皆で持ち寄り、検証し、新たな評価法のひとつとして、さらに身体の可能性を広げていければと思っています。」
と書かれています。
筋トレなどのトレーニングでは、今よりももっと強く速く大きくしようとします。
しかし、ヒモトレというのは、そのような強化をするものではありません。
むしろ本来具わっているものに目覚めるのです。
そこを小関先生は、本来具わっているはたらきを感受し、観察して、そして発見するのだと説かれています。
不思議なことにヒモを腰に巻いたり、たすきにかけたりするだけで、何の意識もしないのに、自然と体が調ってくれるのであります。
こちらは、その体の変化を感受し、観察して、新たな可能性を発見するだけなのです。
たすきをかけるということは、私どもでも、普段から行っています。
それは着物の袂が邪魔になるからたすきであげているに過ぎません。
しかし、このヒモをたすき掛けにすることによって、体が調うであります。
たすきを掛けるとかはちまきを締めるとかいうと、私たちは普段きつく締めるように思います。
しかし、違うのです。
ヒモトレでは、ゆるく巻くだけなのです。
それだけで体が調ってくれるのです。
なんの意識のはたらきも起こさずに、自然と調うです。
これが不思議なのであります。
どういう原理なのかというと、椅子に腰掛けて教えてくださいました。
私も実験台になりました。
椅子から立ち上がるのに、ゆっくり立ち上がるのです。
そうすると体の癖やゆがみなどに気がつかされます。
ぎこちなさを感じたりします。
しかし、ゆるくたすきをかけるだけで、体が安定するのか、すっと立ち上がれるのです。
小関先生が、私の背中に、そっと手を添えてくれました。
ゆるくまいたヒモのように、そっと感じだけるなのです。
それだけで、体の前面だけでなく、背中まで意識が行き渡ります。
その結果、すっと立ち上がることができるようになりました。
逆に、小関先生は、私を故意に立たせようと思って引っ張ったりすると、体が抵抗してしまいます。
体をまっすぐな状態にして、そっと手を背中に添えるだけで、感覚が変化したのでしょう。
すっと立てるのです。
不思議な体験でした。
これは修行にも通じるのかと思ったりしました。
無理に修行させようとするから、体の方が抵抗してしまうのかもしれません。
そっと手を添わせるように、寄り添ってだけいればいいのかもしれません。
お腹に巻いても同じなのです。
体が安定して、少々押しても動じなくなります。
これらが変化が、なんの意識もはからいもなく、自然とそのようになるのであります。
こちらがすっと消えてなくなると、相手も自然とすっと立ち上がるのです。
立たせてあげようというはからいは却って邪魔になるのです。
それから人間はヒモならばきつく締めようとか、厳しく鍛えようと思いがちなのでありあます。
ゆるいヒモ、そっと手を添えるだけで十分だと教わりました。
やはりなんでもやり過ぎはよくないのであります。
なにも意識しなくても調ってゆくはたらき、これは仏心に通じると思っているのであります。
指導というのも、ゆるいヒモのように、そっと手を添えるだけでいいのかもしれません。
横田南嶺