忘れ得ぬ法話会
このお寺の法話会に招かれるのは二回目であります。
今回は、特に和尚が発願して造られた、清涼寺式釈迦如来像の開眼法要も合わせて務められたのでした。
清涼寺式の釈迦如来像について、ラジオ管長日記の「仏像のはじまり」でもお話しています。
お釈迦様が、三十三天にいらっしゃるお母様の為に三ヶ月お説法に行かれました。
地上ではお釈迦様のお姿を拝むことができないので、優填王は、お釈迦様のお姿にそっくりのお像を造ったのでした。
これが仏像の起源と言われています。
その仏像がインドから中国に伝わって宋の都開封にお祀りされていました。
東大寺の僧奝然がその仏像を拝んで感激して、地元の仏師に精密に模刻させて日本に伝えたのでした。
それが京都の嵯峨にある清凉寺の釈迦如来像なのです。
その釈迦如来像を模した仏像を新たにお造りになって、お寺にお祀りしたのでした。
その開眼の法要の導師を務めて引き続き法話を行ったのでした。
そのお寺の和尚は、二十歳の時に、清凉寺の釈迦如来像を拝んで感動して、是非ともこの仏像を造りたいと願いを起こされたのだそうです。
それから五十五年の歳月を経て、ようやく願いがかなったというのですから、涙を流して感激されていました。
法要は実に盛大で遠くスリランカから上座部仏教のお坊さんたちも招かれていました。
静岡市にある臨済寺専門道場の老師も参列されていました。
あと有縁の和尚や地元も和尚たち、それに檀信徒と本堂に一杯でありました。
このお寺の法話会に初めて訪れたのは六年前のことです。
私も六年前のことを思い起こして法話を務めました。
お寺の和尚も、最後の挨拶で、またその六年前のことに触れられていました。
お寺の世界というのは、何でも伝統を尊ぶ世界であります。
この頃は、講演に招かれることがあっても、大抵は電話かメールでやりとりして出掛けることが多くなっています。
お寺の世界では、電話やメールというわけにはゆかず、依頼や打ち合わせにも何度も足を運んで行うのであります。
六年前には初めてうかがうので、何度も円覚寺にお越しいただいて準備をしていました。
ところが、その法話会の一月ほど前に、和尚に大きな病気がみつかり急遽入院手術となってしまったのでした。
和尚からの速達の手紙でそのことを知らされました。
一年も前から準備してきたので、法話会は予定通り行うことと、入院手術を受けるので、和尚ご自身が私を出迎えることができないことを了承して欲しいという手紙だったのでした。
入院の前の日のお手紙でした。
こちらは予定通りにお寺に出掛けました。
お寺の世界では、管長を迎えるときには、門迎といって、寺の山門の前でお迎えするしきたりになっています。
寺の和尚は入院で不在と聞いていたのですが、山門に車が近づくと、我が目を疑う光景がありました。
なんとその和尚が、二月の寒風吹きすさぶ中を、立って出迎えてくださっていたのでした。
更に近づいて驚いたのは、和尚は入院中の衣服のまま、点滴の容器を片手に持って立っていたのでした。
恐らく医師に無理を言って、一時退院してきたのであろうと察しました。
大手術の後であることは、瘦せられた姿からも想像されました。
この法話会にかける和尚の熱意がその姿から伝わってきました。
今も思い起こすのは、その法話会の最後の挨拶でありました。
もちろん病院の衣服のままで点滴を手に持ったまま話されていました。
私も本堂の隅でその言葉を聞いて感銘を受けました。
まず、円覚寺本山から管長を招いての法話会を行えたことの感謝を述べられ、思いもよらずに、直前に病が見つかり緊急入院し手術を受けざるを得なかった思いを切々と述べられました。
いよいよ入院する前の晩に本堂のご本尊にお参りして涙を流されたというのです。
まだ自分にはなすべき仕事が残っているので、どうか手術が無事に終えられるように祈ったという話でした。
手術に迎うベッドの上では、ひたすら観音さまを念じて、『延命十句観音経』を繰り返し唱えられたと仰っていました。
そして和尚は次の和歌を披露されたのでした。
この星に あらんかぎりは やさしさの よろいまといて 生きたかりけり
という歌でした。
これは『法華経』にある言葉がもとになっています。
『法華経』の法師品第十に、如来の滅後にこの『法華経』を説く者は、「如来の室に入り、如来の衣を著、如来の座に坐して」説くようにと示されています。
如来の室とは、大慈悲の心であり、如来の衣とは柔和忍辱の心であり、如来の座とは一切法空のことです。
大いなる慈しみの心をもって、この世でどんな辛い目にあっても、苦しいことが起きても、自分自身は外に対してどこまでも柔和に堪え忍ぶ心を持ち続けることを、柔和忍辱の心を衣とすると説かれているのです。
『法華経』は人間としてどう生きるかを示されたお経であります。
一人の人間として、そのいのちを全うするにはどういう心であるべきかを示されています。
この世に生を受けて、真実の生き方を求めるならば、大いなる慈しみの心をもって、どんな事も柔和に堪え忍んで、大きな広い心で生きようということを示してくれているのです。
和尚の和歌は、この『法華経』の心を詠われていたのでした。
死を覚悟の入院大手術を経て、改めてこのいのちを賜った尊さに目覚められたのだと思ったことでした。
そこで、このいのちあらん限りは、戦場の武士がよろいをまとうように「やさしさ」を身にまとって生きてゆきたいという決意なのでした。
それから幸いにも和尚は病気を克服されて、すっかりお元気になられたのでした。
そしてまた六年ぶりに法話会にお招きいただくことになったのでした。
今回の法話会の終わりの挨拶でも、五十五年の願いがかなって、清涼寺式釈迦如来というお釈迦様三十七歳の時のお姿を模した仏像を寺にお祀りできたことを、涙ながらにお話くださっていました。
六年前の法話会も忘れ得ぬものでありましたが、今回もまた忘れ得ぬ法話会となりました。
横田南嶺