白隠様にお参り
これは白隠禅師の健康法を紹介した本なのであります。
この白隠禅師の呼吸法で、長年の不調を克服された椎名先生の体験や、その具体的方法が詳しく書かれています。
巻末には、伊豆山格堂先生による『夜船閑話』の全文も掲載しているのであります。
本を出版して、椎名先生は、その報告とお礼に、白隠禅師のお寺にお参りされたとうかがいました
なんと尊いことだと思いながらも私はなかなかお参りもできずにいました。
それがどうにか先日ちょうど沼津市内のお寺に法話に出掛けることがありましたので、その折に白隠禅師のお寺である沼津市原の松蔭寺にお参りしてきました。
白隠禅師はこの沼津市の原というところにお生まれになり、原の松蔭寺で出家され、松蔭寺の住職になり、そして松蔭寺でお亡くなりになってお墓も松蔭寺にあるのです。
修行時代も日本各地を遍歴し、お説法や修行の指導に全国を回られた白隠禅師でありますが、この原で生まれ、原で住職して、また原でお亡くなりになっています。
松蔭寺の前にあるバス停は、なんと「白隠前」というのであります。
白隠禅師は、これほどまでに地元の方に親しまれているのだと感じました。
はじめに松蔭寺に行き白隠禅師のお墓にお参りしてきました。
ちょうど法要を終えられた松蔭寺の老師にもご挨拶することができました。
白隠禅師のお墓のまわりには、おおくの石塔が並んでいます。
これらは白隠禅師のもとで修行しながら亡くなった僧たちの墓であります。
今は、修行中に亡くなることなど滅多にありませんが、あの時代は栄養事情もよくなかったと察しますし、医療も発達していませんでしたので、おおくの修行僧がなくなったのでした。
白隠禅師を取り囲むようにお祀りされていますので、死してなお今も白隠禅師をお慕いし参禅しているようにもお見受けします。
栄養も十分でなかったでしょうから、若い修行僧達が大勢亡くなっているのであります。
お経をあげながらも、胸の締め付けられる思いでありました。
松蔭寺から歩いてすぐのところに、「白隠禅師産湯の井戸」が残っていてそこにもお参りました。
ここは白隠禅師の生家である長澤家の跡でもあります。
これは、白隠禅師250年遠諱を記念して大本山妙心寺が整備をされて、産湯の井戸が遺されて、さらに白隠禅師を顕彰する無量堂というお堂がございます。
お堂にお参りすると、窓を通して正面に白隠禅師のご肖像を拝むことができるようになっています。
松蔭寺から歩いてすぐなので、お生まれになったところも、お亡くなりになったところもほぼ同じ所なのだと実感することができました。
白隠禅師のお母様が長澤家で、この宿場の長であり、代々仏教を大事にしていました。
お母様も信心厚く常に慈悲行を行っていたというのです。
白隠禅師は、ご三男だったのでした。
はじめは三歳になってもまだ立って歩くことができませんでした。
ようやく立つことができるようになると、まわりの者が「岩さまがたった」と喜んだといいます。
幼名は岩次郎と申します。
禅文化研究所発行の『白隠禅師年譜』には吉澤勝弘先生の現代語訳で次の記述があります。
引用させてもらいます。
「ある日、下女に連れられて浜辺で遊んだ。
下女たちは集まって戯れ楽しんでいたが、岩次郎だけは、ひとり静かな所に坐って太平洋を眺めていた。
そして、空に雲の行き来して、現われたかと思えば消えてゆくさまを見て、「いかにも変わったものだ」と心に思うのであった。
そして世間の無常のさまを観じて、しばしば泣くことがあったが、誰もそのわけを知る者はなかった。 もって生まれた宿知と言うべきであろう。」
というのであります。
ご幼少の頃から感性が鋭かったのだと察します。
十一歳で昌源寺に母と共にお参りして地獄の話を聞いて恐れおののいたというのですが、それもこのあたりのことだと思うと感慨が一層強くわいてきます。
お参りした時はよいお天気で、富士山がすぐそばに見えました。
すぐ近くに圧倒されるようなお姿なのでした。
こんなに富士山が近いと、白隠禅師は富士の噴火の時には、恐ろしかっただろうと思いました。
宝永四年の大噴火があったのです。
しかし、年譜には次のように書かれています。
吉澤先生の現代語訳を引用します。
白隠禅師二十三歳の時です。
「この冬、富士山の内輪から火が噴き出して山の中心部が数日にわたって焼けた。 山河は音をたてて揺れ動き、(噴煙で)日も月も隠れた。そのうちに、火の勢いは東の中腹に移って、そこから(溶岩が)流れ出した。
さながら無底の黒火坑が現われたようである。
そして噴煙があがって万畳の雲となり、焔がほとばしり百千の雷が閃いた。
砂石が大雨のように降り、大地は震動して壊れんばかりであった。火口の方面にあった村落では、降る砂石のために活き埋めとなった者が幾千人も出た。
この時、松蔭寺のあたりも大地が大揺れし、建物は音をたてて震動した。
兄弟子と手伝い方の童僕たちは、みな走って、一緒に郊外に逃げてうずくまっていた。
しかし、慧鶴だけは、ひとり本堂で兀然と坐禅をした。
そして心に誓った、「もし自分に見性することのできる運勢があるならば、諸聖が必ずやこの災害から守ってくれるであろう。もしさもなくば、壊れる家の下敷きになって死のうとままよ」と。
そこに生家の俗兄(古関)がやって来て、「危険が目の前にあるというのに、おまえは何で悠々とこんなことをしておるのか」と言う。
慧鶴は「わが命は天に預けたから畏れることはない」と答えた。
俗兄は再三にわたって説得したが、慧鶴は堅く誓って起たず、なおも誓願をたてて、この嶮難のさなかで工夫を試みた。
やがて鳴動がおさまった。慧鶴は端然として、一つも損傷するところはなかった。」
というのであります。
こんな逸話にも白隠禅師がお若い頃から如何に優れた人物であり、如何に肚の坐った人物であったかがよく分かります。
白隠禅師のご遺徳を偲んでお参りさせていただいたのでした。
横田南嶺