仏塔と仏像 – ブッダへの思慕 –
円覚寺では、午前十時から仏殿で法要を行います。
三年ぶりに、仏殿の中にお参りの方も入れるようにしています。
一時間ほどかかる儀式であります。
お釈迦様のご最期の様子については、先日の日曜説教でお話した通りです。
お釈迦様がお亡くなりになったあと、そのご遺骨は仏塔にお祀りされるようになったのでした。
お釈迦様のご遺骨を舎利と申します。
このあたりのことを、梶山雄一先生の『大乗仏教の誕生 「さとり」と「回向」』(講談社学術文庫)を参照して学んでみます。
まず、「ブッダは自分の死に際して、アーナンダに告げた。汝ら比丘たちは自分の葬儀にかかわってはならない、それは世間のバラモンや王侯や在家の信者の仕事だから、と。
ブッダが死んだとき、八人の王をはじめとする在家の仏教徒たちは、その遺体を焼き、塔(ストゥーパ)に納め、その塔に香や花を供え、歌舞音曲を奏して供養した。」と書かれています。
そのようにストゥーパが作られたのでした。
今日本にある五重塔や、円覚寺の舎利殿などは、このストゥーパなのであります。
そうしますと、ストゥーパを信仰する人たちが集まるようになってきたのでした。
舎利殿というのは、文字通り、お釈迦様のご遺骨、舎利をお祀りする建物です。
梶山先生は、
「こうして仏塔の祭祀と崇拝を中心に、出家の比丘・比丘尼の僧団とは別に、在家信者たちの衆団が発展し、在家信者たちの仏教がしだいに形成されていった。」
と書かれています。
このストゥーパに集まった在家の人たちから大乗仏教が起ったとされる説が長い間有力でありました。
ただいまでは、それは否定されています。
梶山先生は
「彼らは、塔のなかのブッダはなお生きて、自分たちを見守っている、と考えたのである。」
と書かれていますように、独自にブッダへの信仰が起ってきたのでした。
もともとブッダは、神格化された存在ではなかったのですが、お亡くなりになった後に、ブッダを恋い慕う気持ちが強くなって、崇拝の対象となっていったのでした。
はじめは土を盛っただけのストゥーパが、だんだんと立派になってきました。
アショーカ王が作ったとされるサーンチーのストゥーパなどは、ずいぶんと大きく立派なものであります。
欄楯や塔門には、さまざまな彫刻が施されています。
そこにお釈迦様の生涯を表わした仏伝図も彫刻されているのです。
しかし、まだ紀元前の彫刻には、お釈迦様のお姿をみることができません。
梶山先生も
「教えを聞く信者たちや動物や周囲の風景は克明に描かれながら、主人公たるブッダの姿はなく、ブッダは空座の上に傘蓋を立てたり、聖樹・仏足跡・法輪などで象徴されているにすぎない。
この形式はパールフットのストゥーパや、その他の紀元前の仏跡の彫刻においても同様である。つまりブッダの姿をそのまま描き出すことはタブーになっていて、仏伝のなかのブッダは空座や法輪で象徴されたにすぎない。
紀元前の仏教美術には仏像は存在しなかったわけである。」
と明言されています。
またブッダの神格化が進むにつれて、ブッダは超人的存在とされるようになり、三十二相という特殊な身体的特徴を持つとされるようになりました。
三十二相というと、
扁平足である、足の裏に千輻輪(せんぷくりん、千の輻が輪状になった紋様)の文様がある、手足の指の間に水かきがある、直立したとき手が膝に届く、肌が金色である、歯が40本ある、広長舌相といって舌は顔を覆うほど大きい、頭頂に隆起(肉髻(にっけい))がある、眉間に白い旋毛(白毫)があるなどがあります。
なかなかこうしたものすべてを造形として表わすのは困難だったという事情もあります。
そして、梶山先生は、
「またインド・アーリア人はもともと神像を祀る習慣をもっていなかった」と書かれています。
かくして「インドの仏教徒もはじめは仏伝やブッダの象徴は描いたけれども、仏身そのものを彫刻に表現しようとはしなかった」のでした。
それが、いつ仏像ができるようになったかというと、
「それまで禁忌とされていたブッダの形像が彫刻や絵画に描かれるようになったのは、ガンダーラとマトゥラーとにおいてであり、それも後一世紀にほとんど時を同じくしてあらわれるようになった」というのであります。
ガンダーラの仏像は、よく教科書になどにも掲載されています。
ギリシャ風のヘレニズムの影響を受けていることは一目瞭然であります。
一方のマトゥラーの仏像は、ヘレニズムの影響がありません。
全く異なる仏像が同じ時期にできたというのは不思議なことであります。
またもともとは、お釈迦様お一人だったのでしたが、お釈迦様は既にお亡くなりになってしまって、ブッダはいないということになるので、今の時代にもブッダはいらっしゃると考えるようになってゆきました。
西方の阿弥陀如来とか、東方の阿閦如来などは、早い時期から説かれるようになっていったのであります。
更に菩薩様なども仏像として作られるようになってゆきました。
かくして、如来像、菩薩像などの多くの仏像が作られるようになって、それらが中国を通して日本へ伝わってきたのでした。
優填王の話は、信仰の上の仏像の起源ですが、これが実際歴史の上の仏像の起源なのであります。
横田南嶺