あきらめない
日曜くらぶの紙面に、心療内科医の海原純子先生が「新・心のサプリ」というコラム記事を連載されています。
四日の記事のタイトルは「あきらめない力」というものでした。
はじめに「ベランダで育てていたイタリアンパセリが鳥に食べられて茎の残骸だけ残った」という話を書かれていました。
これはかつて書かれた記事のことです。
海原先生は「残った茎を一度全部抜いて更地にしてまた新たに植えようかと」思ったらしいのですが、そのままにしていたそうです。
すると「忙しい日が続いてプランターをちゃんと確認することもないまま時が過ぎたある朝プランターを確認すると緑色が鮮やかなイタリアンパセリの葉が何本か出ているのだった」
というのであります。
海原先生は「心の中であっと叫んだ」のだそうです。
そうして葉がどんどん増えていったという話なのです。
そこから「命をつなぐことをあきらめないハーブを見ていると思いだすことがある」そうなのです。
「研修医の頃、2年先輩の医師がどう見ても助からないだろうと思われたまだ若い男性の心臓マッサージを何分も続けていた」のだそうです。
無理だろうと思いながら、その先輩の熱意につられて手伝ったそうです。
すると「数時間後に心臓の動きが回復した」というのであります。
「男性は脳に障害が残り体が不自由になったが、数カ月リハビリをして退院した。男性の母親のうれしそうな表情が心に残った」という話であります。
奇跡のようなことがあるものです。
あきらめていたらそれまででしょう。
もっとも海原先生も「あきらめずに続けることが素晴らしい結果になるとは限らない」と仰っています。
しかし「あきらめずに続けるそのプロセスがその人や周りの意識を変える」と書かれていました。
私なども修行を続けてきて、結局はあきらめないでやるかどうかだと思います。
修行に関して言えば、人間の能力の差はわずかなものです。
ただあきらめずにやるかどうかの違いであります。
『四十二章経』という経典に、次の言葉があります。
原文は漢文ですが、現代語に意訳すると
「仏さまが仰せになった、仏道を修めるものは、ちょうど木が水にあって、川の流れにそって行くようなものだ。
両岸に触れず、人に取られたりせず、ばけものに遮られず、うずまきに巻き込まれてとどまったりせず、また腐ったりしなければ、私はこの木が流れて必ず海に入ることを保証する。
それと同じように道を学ぶ者も、欲望の為に惑わされず、さまざまなよこしまなる誘惑に乱されず、悟りを求めて精進してゆけば、この人は必ず真の道に入ることを保証する」というところです。
この言葉は、白隠禅師が二十二歳の折りに、四国松山の正宗寺にあって、逸禅和尚が『仏祖三経』を提唱されるのを聞いて感動した言葉でもあります。
『仏祖三経』とは、この『四十二章経』と『仏遺教経』『潙山警策』を加えたもので、禅門においては、修行僧の為によく提唱されています。
『白隠禅師年譜』の記述によれば、後にあれほど名を成した白隠禅師でありますが、その頃はまだこの上無い悟りの道は、自分のような者にはなし得ないのではないかと疑いを懐いていたというのです。
しかし、この『四十二章経』の一文を読んで、そのような疑いは底を払って絶えたと年譜には書かれています。
以来『禅関策進』を友とし、『仏祖三経』を師として常に座右に置いて手放すことがなかったという話です。
また同じく『四十二章経』には次の言葉もございます。
こちらも現代語訳を引用させてもらいます。
訳文は筑摩書房『禅の語録19禅関策進』にある藤吉慈海先生によるものです。
「仏道を修行する者は、たとえば一人で万人と戦うようなものである。
鎧を着て門を出ると、あるいは、心が弱く、あるいは途中で退却し、あるいは敵と格闘して死に、あるいは勝利を得て還る。沙門の学道は、よろしくその心を堅持すべきである。
精進勇猛にして、目前にあらわれる悪魔をおそれず、いろいろの煩悩の悪魔を破滅して、無上正真の道果を得るのである。
評、途中で退却する者は、自分で限りをつけて進まない者である。
格闘して死ぬ者は、すこし進みはしても、そのてがらの無かった者である。
勝利を得て還る者は、惑業の悪魔を破って、無上正真の道果を得た者である。
勝利を得る理由は、全くその道心を堅持して、精進勇猛なるにある。
学道の人はただひたすらに直進すべきである。
退くことを考えてはならぬ。死ぬことをおそれてはならぬ。
前の章において言ったではないか、「私はこの人を保証する、必ず[この人は]道を得るであろう」と。
また『法華経』にいってある、 「わたしは今お前のためにこの事を保証する。けっしてうそではない」と。仏がすでにこのように保証していられる以上、何を思案し、何をおそれようか。」
というものです。
とにかくあきらめたらそれまでです。
コツコツと倦まずたゆまず努力を続ければ、どんな道でも駄目だということはないのです。
横田南嶺