坐禅とは
『佛光録』巻九に、仏光国師がご自身の修行の体験をつぶさに語っておられるところがあります。
仏光国師は、十三歳で出家され、十四歳で径山万寿寺に登って修行を始められました。
十七歳の時に、趙州和尚の「無」の字を公案としていただきました。
ある僧が趙州和尚に質問しました。
犬にも仏性はありますかと。
趙州和尚は「無」と答えたという、問答はこれだけです。
この趙州和尚の答えた「無」とは何かを参究するのです。
仏光国師は、はじめこんな問題は一年で片付くだろうと思われました。
しかし、一年坐禅しても答えがでません。
更に一年、更に一年と三年が経ち、四年、五年経ってもこの「無」の一字が分かりません。
それでも五年もただ「無」の一字に集中していると、天を仰ぐと天に一杯無字が満ち渡り、地を見れば大地一杯に無字が満ち渡っているようになってきました。
夢の中でも「無」の一字を見るようになってきたというのです。
そんな修行をしていた頃に、ある老僧が、あなたは一度その無字を捨ててみなさいと言われました。
そこで仏光国師は無字を捨てたのですが、今度は却って「無」の一字の方がずっと自分に付き従って離れなくなってきました。
更に坐禅すると、とうとう「無」の一字も見えなくなり、自分の体も見えなくなったと語録には書かれています。
こういう深い坐禅をすべく修行するのであります。
そうして坐っていくと、一日一夜経ったのも気がつかないうちに坐っていたということもあったのでした。
そんなある晩から朝方まで坐禅して、明け方の木版を打ち鳴らす音を聞いて、ハッと悟るところがあったのでした。
板を打つことに喩えて、げんのう一槌で、煩悩妄想の巣窟を打ち破り、本来の自己があらわになったという意味の漢詩を作られています。
そんな心境を記した漢詩を、当時の径山の住持であった仏鑑禅師に示したのですが、仏鑑禅師は、いいとも悪いともいわずに地面に振り捨てられたのでした。
その後仏鑑禅師と問答しますものの認められずに竹篦という棒で打ち据えられたのでした。
ほどなく仏鑑禅師はお亡くなりになってしまい、そのあと更に仏光国師は行脚して修行を続けられました。
更に仏光国師は、ずっと修行を続けていって、ある時に馬祖道一禅師の打牛車の話を読んで、大いに悟ることがあったと書かれています。
その時の心境を、千七百あると言われる公案についてすべて疑いがなくなったと表現されています。
径山で石溪禅師について修行をしていて、問答しても全く滞るところがなかったのでした。
打牛車の話というのは次の問答であります。
馬祖道一禅師は非常に優れた方で、いつも姿勢正しく坐禅をしていたそうです。
そんな馬祖禅師の修行ぶりを見ていたお師匠さんの南嶽禅師が聞きました。
「あなたは坐禅をしていったい何をするつもりですか」。
馬祖禅師は言いました。「仏になろうと思います」。
これはすばらしい答えです。
仏になるというのは無限の彼方にある目標ですが、それに向かってひたすら私は努力しているというのです。
それを聞いた南嶽禅師はその場にあった一枚の瓦を取り出して一所生懸命磨き始めました。
不思議なことをするものだなと思って馬祖禅師は、「瓦など磨いて、どうするのですか」と問いました。
南嶽禅師は「瓦を磨いて鏡にするのだ」と言います。
馬祖禅師は「瓦を磨いて、どうして鏡になど成り得ましょうか」と言うと、
南嶽禅師は「瓦を磨いても鏡にならないのに、どうして、あなたが坐禅したら仏になれるというのか」と問いました。
馬祖禅師は驚いて、立ち上がって問いました。
「では、どうすればよろしいのですか」と。
南嶽禅師は「坐禅するというのなら、禅そのものは、坐っているか横になっているかという姿形とは関わりはないのだ。
坐った形が仏であるというなら、仏には決まった姿かたちなどありはしないのだ。」と仰いました。
更に「人が牛に牽かせた車を進めているとして、車が動かなくなった時、さあ、車を打つがよいか、牛を打つのがよいのか」と問いました。
馬祖禅師はそこでハッと気がついたというのです。
坐った姿勢だけを仏であると思っていれば、それは本当の仏を殺してしまうことになると言われたのでした。
仏というのは特別な姿形を持っているものではない、その時その時いろんな姿をして現われているものだと気がついたのです。
それから更に十年、南嶽禅師にお仕えし、日々、禅の奥深い道理を究めていったのでした。
後に馬祖禅師は
「汝等諸人、各、自心是れ仏なり、此の心即ち是れ仏心なることを信ぜよ。」
と説かれました。
自分の心が仏であり、自分の心こそすばらしい無限の可能性を秘めた宝であることを信じなさいということです。
達磨様が遥々インドの国から中国にやって来て示そうとされた教えはこの一つのことなのだというのです。
坐禅という修行を通じて、そのことに気がつくのです。
かの久松真一先生が、
形無き自己に覚めて不死で死し
不生で生れ三界を遊戯
と詠われたのを思い起こします。
形無き自己が、生まれもしない死にもしない自己がただこうして今坐っているのが坐禅であります。
横田南嶺