足で歩く、一歩一歩
その中に四コマ漫画がありました。
なぜ歩けるのでしょうというのが第一で、
その次に「足が動くから」「重力があるから」とあって、
三番目に「目標があるから?」と書かれていて、
最後に「地面があるからだって最近思うんだよね」と書かれていました。
なるほどと思って読んでいました。
地面があるということは有り難いことであります。
しかしながら、地面だけでは歩けないので、やはり足があるからであり、重力もあるからでしょう。
それから脳もしっかりはたらいていないとバランスをとって歩くことはできないでしょう。
それから、最近思うのは、足にけがをしていないことも大事だということです。
その数日前に修行僧の一人が、足にけがをして病院に行くことがありました。
ほんの数日でしたが、歩くのが困難になっていました。
いくら大地があって、元気な修行僧でも足をけがしていれば歩けないのであります。
大きなけがでなくても足の裏にほんの少しの傷があっただけで歩けなくなります。
なにかがあるからというのは気がつきやすいのですが、なにかがないおかげでというのは気がつきにくいものです。
けががないというのは有り難いことなのです。
若い修行僧達をお預かりしていると、けがや病気のないようにということだけは気にかけています。
祈る思いで暮らしています。
けがなく病気のないことは有り難いことであります。
けがなく脳にも異常のないおかげで歩くことができます。
四コマ漫画に「目標があるから」という言葉がありました。
たしかに目標をもって歩くことは大事であります。
もっとも何の目標もなくたたブラブラ歩くこともあるでしょう。
禅語に「歩歩是れ道場」というのがあります。
一歩一歩が道場だというのです。
これから道場へ出掛けるというのではなく、歩く一歩一歩がすでに道場なのだということです。
武道の稽古などでは、道場に来てからが稽古ではなく、家を出たらすでに稽古なのだと言われています。
そんなことを思うと、また藤田一照さんの言葉を思い起こしました。
一照さんが、かのティック・ナット・ハン師から言われたことであります。
先日ご紹介した、「一照さん、笑顔だよ! 修行は楽しいものでなくてはなりませんよ」と共に言われた言葉であります。
それは
「幸せへの道はない。幸せが道である」という言葉です。
一照さんは
「幸せは、道の最後にあるものと私は思っていました。
そういう考えでは、それに向かって歩いている間は、幸せを手に入れるまでの途上でしかなく、まだ幸せではないのです。
仏教が約束する素晴らしい境地は、長く遠い道を歩いていったその果てに待っているのであって、それを求めて歩いている途上には存在しない、そう思い込んでいたのです。
ですから、当然、スマイルできるはずもなかったのです。
しかし、幸せは、「道の終わりにではなく、今、ここ」にあると、ティック・ナット・ハン師が教えてくれました。」
というのであります。
そこで一照さんは
「未来にある幸せを目指して、苦しい道を我慢して歩くのではなく、歩いている今の一歩一歩の中にすでに幸せがあり、それを愉しみ、微笑みながら歩いていくのが修行でなければならない。そういう「愉しい修行」を構想し、実践するという新しい課題をこのときいただいた思いがしました。」
と語っておられました。
『愉しい修行がもたらすもの』(鴻盟社刊)には、
「いつも溌刺としていて、活き活きと元気で、自分の生きていることそのものが快く、自分の魂を感じていられる状態を私は「愉快」と言います。
それは単なる「楽しさ」よりもさらに存在の深いところで味わえる悦びです。愉快な修行とは、特別なことをやることではなく、日々出合うことのすべてを、自己をさらに深く学ぶためのチ ャンスとして活かしていく創造的な工夫のことです。」
と書かれていました。
ちょうど成道会の前までは床の間に山岡鉄舟の富士山の画讃をかけていました。
かたつむり富士のお山にのぼるべし
と讃が書かれているものです。
かたつむり登らば登れ富士の山
という句もございます。
はたしてあの小さなかたつむりが、富士山に登れるのかどうか、どれくらいかかるのか分かりませんが、かたつむりのその歩みがそのまま富士山の中にあると受けとめることもできます。
山頂だけが富士山ではありません。
登っているそのその場その場も富士山にほかなりません。
そう思えば一歩一歩が富士山の中だとも言えましょう。
おおいなる御手の真中に生かされての一歩一歩の歩みであります。
そう思うと大地があるからという大地は、やはり阿弥陀如来のお慈悲を表わしているのだと思いました。
我々の禅の修行では、毎日の暮らしのひとつひとつの営みが仏さまの行いだと説くのであります。
長い修行を経てようやく仏の境地にたどりつくというよりも、毎日のひとつひとつの行いが悉く皆、坐禅も掃除も炊事も皆仏の中にあっての営みなのです。
横田南嶺