刀を磨く
所蔵の多さは一番の驚きでありました。
白隠禅師のものだけでもかなりの量の墨蹟であります。
うかがうと、先代の細川景一老師が、そのほとんどを蒐集されたとのことでした。
更に今の晋輔老師もまた、集め続けておられるとか、二代にわたって貴重な墨蹟が散逸しないように、守ってくださっているその熱意に感動しました。
盤珪禅師の墨蹟もまた同じなのであります。
龍雲寺は、盤珪禅師のお弟子の方が開山されたお寺で盤珪派なのですが、あまり墨蹟は残っていなかったらしいのです。
それにしても拝見しただけでも相当な数なのに、まだ出せていないものもあるというので、驚くばかりなのです。
白隠禅師の書画なども、やがて国の重要文化財になる日も来るように思います。
もちろん只今でも実に貴重な禅文化であります。
たくさんの書画を拝見する中で、ふと気になる書がありました。
白隠禅師の書で、
千日刀を磨かんよりは、如かず、一日鉄を鍛えんには。
と書かれていたものでした。
白隠禅師の書は、難しい崩しもあるのですが、これはすぐに読めました。
しかし、あまり聞き慣れない言葉なのでした。
どういう言葉かなと思って細川さんにうかがうと、佛光録にある言葉がもとになっていると教えてくださいました。
花園大学国際禅学研究所から出された『白隠禅画墨蹟』に載っているのでした。
その解説によれば、『仏光国師語録』巻五、「入室後普説」にあるのです。
寺に帰って早速調べてみました。
「我前日、此間の人の刀を做(つく)ることを説くを見るに、専ら煉鉄を以て工と為す。
鉄を煉ること若し工ならずんば、好刀に非ず。
元来、鉄を煉ること百十次にして、此の刀比ぶること無し、と。
山僧自ら謂えらく、学道の人、工夫を做すことに一般なり。
千日刀を磨せども、如かず一日鉄を煉るに。
兄弟、千歳、禅を説くことを学ばんよりは、如かず、工夫を做すこと一年せんには。
千万相い信ぜよ。山僧も亦た曽て語録有らず。韻略も也た無し。
単単に只だ破蒲団、破紙被と対頭と作す。
我れ今日出で来たって頭首長老と做って、七縦八横、我に由って自説す、何ぞ曾て欠少せん。
我は笑う、他門只管に語録を謄写して、大冊小冊表背し了って大いに担い、身に随えて担走す。
他をして四句を做らしむるに及んで、略ぼ触浄を識らず、便ち人に笑わるることを。
病は曽て工夫を做さざるに在り。」
という言葉がありました。
およそを意訳すると、仏光国師が前の日に、刀を作る人の話を聞いたというのです。
刀を作るには、専ら鉄を鍛えることが大事だ。
鉄をしっかり鍛えておかないと、よい刀にはならない。
もともと鉄を百回も千回も鍛えてはじめて比べようもない良い刀になる。
そんな話を聞いて仏光国師は、これは修行者が禅の修行をするのと同じだと思った。
千日刀を磨くよりも一日鉄を鍛える方が大事だ。
修行者たちよ、千年禅を説くことを学ぶよりも、しっかり坐禅して一年修行した方がましなのだ。
まずはこのことを信じなさい。
私もかつて語録などには目もくれなかったし、漢詩の本も見なかった。
ただただ、破れた坐禅の座布団と紙の衣と相対して過ごして来ただけだ。
それが今日、お寺の頭となって自由自在に説法してなにも欠けることがないのだ。
他の者たちが、ただひたすら人の語録を書き写して大事に製本してそれを担って、肌身離さずに持ち歩いているのはお笑いぐさだ。
そんな人にわずかの漢詩でも作らせると、よしあしも分かっていないし、人に笑われるだけだ。
なにがいけないかというと、しっかり坐禅修行していないことだ。
ということであります。
今北洪川老師は、佛光録に書き入れをされていて、鉄を煉るというのは、煉りたてるのが大事だと書かれていて、更に白隠禅師の言葉として、
「この頃の悟りというのは、無念無心だけを説いてばかりいる。刀も打たぬ前に鉄を鍛えるのが大事だ。昔の刀鍛冶は千日鍛えた。修行者も隻手音声より、だんだんと難透の公案をもって鍛錬して修行してゆかねばならない、うわべだけの無念無心を説いても埒はあかぬ」
と書き記されています。
臨済禅師には「今時の学人得ざることは蓋し名字を認めて解を為すがためなり。 大策子上に死老漢の語を抄して、三重五重複子に包んで人をして見せしめず、是れ玄旨なりといって以て保重をなす。
大いに錯れり。 瞎屡生、汝枯骨上に向つて什麼の汁をか求めん」という激しい言葉があります。
意訳すると
「この頃の修行者が駄目なのは、言葉の解釈にとらわれてしまうからだ。
大判のノートに何のはたらきもない和尚の言葉を書きとめ、それを三重五重と丁寧に袱紗に包んで、人に見せないようにし、これこそが玄妙な仏法の奥義なのだと言って、大切そうにしている。
大いに間違っている。
真理を見る眼の開けていないものだ、お前達は干からびた骨からどんな汁を吸い取ろうとしているのか」と。
鉄を鍛えるということが、坐禅の修行に喩え、刀を磨くことが、語録や言葉を学ぶことにたとえているのであります。
たしかに修行することを、鉄を鍛えるのに喩えている場合がよくございます。
師家に参じることを、爐鞴に入ると言っています。
爐鞴はふいごで、鉄を鍛えるのに風を送るものです。
鉄を真っ赤に燃やすのです。
また師家の指導を受けることを「鉗鎚を受ける」と言います。
鉗鎚は、「鉗」はやっとこ、「鎚」はかなづちの意で、師が弟子を厳しく鍛錬することを言います。
とある老師は、
「名刀正宗は八十六万七千四十たび鍛えに鍛えた」とよく言われていたそうです。
鉄を真っ赤に焼いて、それを何度も何度もたたいて、余計な成分が火花になって飛んで行って鋼(はがね)が鍛えられていくのです。
私たちの修行も同じようなものです。
大相撲のぶつかり稽古のように、ぶつかっては何度も何度も投げ倒されて足腰が鍛えられ、心も鍛えられるのです。
それと同じように、坐禅して老師の室内に入っては何十、何百、 何千、何万回と否定されてゆくうちに、余計な雑念が飛んで行ってしまい鋼のように鍛えられていくのです。
白隠禅師はは宝暦二年(一七五二)六十八歳の秋、南伊豆の帰一寺で「仏光録』を提唱しているそうなのです。
こんな仏光国師の言葉に触れて、やはり毎日の地道な修行が大事だと教わりました。
横田南嶺