白木でよいか
これは、一切の作為や造作がなく、是も非もなく、ただありのままの心です。
それを更に臨済禅師は、「無事」と説かれました。
臨済禅師は、外に求める心がやんだのが無事だと説かれました。
無事を、入矢義高先生の『禅語辞典』で調べてみると、
① なすべきことは何もない。また、人為の入りこみようもない平穏静謡な世界のありよう。
② 「さあ、もう用はない。」上堂説法のしめくくりにいう言葉。
③よせば良いのに。わざわざ。
という意味が書かれています。
『禅学大辞典』にはもっと詳細に
①問題がない。用事がない。日常挨拶の語。
②寂静無為の境涯・本来の自己に立ち還った安らかさ。
という解説があります。
さらに「無事界裡」という言葉の説明には
「求むべき悟もなく、行ずべき道もないと考える、あやまったさとりの境界。」
という解説があるのです。
もっとも②には、任運無作の絶対の境界という意味も挙げられています。
「無事是れ貴人」は、臨済義玄の言葉として、
「無事は無為のこと。無為とは、「平常心是道」というありかたで、一切の造作を排して無心に道に合すること。」と解説されていてこれは良い意味であります。
しかしながら「無事禅」というと
「悟りを求めることなく、また省悟のない修行をする禅。
看話禅の立場から、黙照禅を称して無事禅、枯木死灰禅などと蔑称した。」と
いうように悪い意味で使われています。
『禅語辞典』にも
「無事の会」とは、「仏法は修むべきなく証すべきなし(馬祖や臨済の常套語) と思いこんで、何もしなくてよいと収まりかえっていること。
宋の大慧はこれを「無事甲裏に坐在す」(無事という楼閣の中でアグラをかく)と呼んだ。」と説かれています。
また「無事禅」とは、「なすべきことは何もないと収まりかえった「平常無事」の教条禅。」と説かれていて、これらは良い意味ではありません。
馬祖禅師や臨済禅師の説かれた「平常無事」という言葉は、後に批判される言葉となっていったのです。
同じようなことが、日本において「不生」という言葉で起こっています。
不生は、盤珪禅師が生涯にわたって説き続けられた言葉であります。
小川隆先生は『禅思想史講義』の中で、一〇二ページに次のように説いて下さっています。
以下引用させていただきます。
「盤珪は「不生の仏心」ということをしきりに説きました。
「不生」というのは後天的に新たに生み出されたものでなく、もともと具わっているものだということです。
親から生みつけてもらったものは、この「不生の仏心」ただひとつ。
それにさえ目覚めておれば、寝れば「仏心」で寝、起きれば「仏心」で起き、歩くも坐るも、しゃべるも黙るも、飯を食うのも服を着るのも、みな「仏心」での営みにほかならない。
さすれば、へいぜいより自らが「活き仏」なのであって、いついかなる時も、自ら「仏」でない時がない。
ことさら「仏」になろうと励んだり、修行中の居眠りを叩いたり叱ったりするのは、とんだ見当ちがい。わざわざ「仏」になろうとするよりも、「仏」でいるほうが、面倒がなくて、近道でござる。
盤珪はいつもそんなふうに説いていました。」
というものです。
不生というのは、馬祖臨済の説かれた「平常無事」に通じます。
そのものといっても良いでしょう。
しかし、この「不生」が「不生禅」となると悪い意味で批判されるようになってゆくのです。
白隠禅師の『壁生草』にこんな言葉があります。
禅文化研究所発行の『壁生草』から、芳澤勝弘先生の現代語訳を引用します。
「老師はいつも枯坐不生の邪禅をこの上なく憎んで、罵倒して来られました。
これまでずっとこのように罵倒し続けて来られたのなら、批判された人々は、老師を冤敵のように思い、いずれそのうちにきっと、言われもないのに災いをもたらし、
あれこれ計略をめぐらして、老師を誹謗するでしょう。そうなれば、仏法のために大いに害あることになります。
どうか老師、そのことをお考えいただいて、不生禅や黙照禅のやからは放っておいて、一顧もされない方がよろしゅうございましょう。」
とある人が白隠禅師に箴言したというのです。
それほどまでに白隠禅師は、不生禅を嫌っていたのでした。
また同じ『壁生草』には、
「松蔭寺の先住、透鱗和尚の如きは、まさに今時の不生の立ち枯れ禅であった。
少しの世念もないから、世間のことは何も御存知なかった。
ひたすら、山賤の白木の椀そのままに、漆つけねば剥げ色も無しだ、その身そのままが仏なのだと言って、一切万縁を顧みない人であった。
そういうことだから、松蔭寺は貧窮の極に達し、屋根は漏り、床は腐るということになってしまったのだ。」
と書かれていて、不生禅をやっていたから、なにも出来ずに寺が貧しくたいへんな状況になったというのです。
白隠禅師にとって「不生禅」は、目の敵、罵り続けています。
「山賤の白木の椀そのままに、漆つけねば剥げ色も無しだ」というのは、
「山賤 (やまがつ) が 白木の合子(ごうし) そのままに
漆つけねばはげ色もなし」
という和歌のことです。
「やまがつ」とは
「猟師・きこりなど、山中に住む賤しい身分の人。」をいいます。
「合子」とは、「身と蓋とから成る小さい容器。蓋物・香合の類。」のことです。
和歌は、山仕事をしている木こりや猟師が、 ふだん使っている粗末な白木の弁当箱は、漆が塗ってないので、 色がはげ落ちることがないという意味です。
そこから「お互いにお唱えする念仏も、飾り気のない心でお唱えする」ということをいっています。
実に「白木の念仏」というのは「雑念をまじえない他力の念仏。」のことなのです。
この和歌は浄土宗の法然上人のお弟子で西山 (せいざん) 證空 (しょうくう) 上人の作であります。
白木の念仏とは、阿弥陀仏の本願にもとづいて純粋に称える念仏に譬えて、逆に彩色を施すことは、無駄にこれに付け加えられてゆく自力根性に譬えています。
同じ言葉でも高次の教えを表わすのに使われたり、また譏る言葉としても使われるのです。
言葉にとらわれないで、何が本質か、その言葉を通して見て取ることが大事であります。
横田南嶺