鼠の浄土に猫の一声
講演の一時間前についたので、先に墨蹟を拝見しましたが、一時間くらいでは足らないほどの墨蹟の量に驚きました。
圧倒された感があります。
よくこれだけのものを所蔵して管理されているご苦労を思いました。
先に白隠禅師の書画を拝見すると、洗練された山水画のような画もあれば、見るだけで心が和むような画もあり、寄りつきがたい書もあれば、拝見するだけで、要らぬ力が抜けるような書もあります。
一貫しているのは、修行の力であります。これを道力といいます。
盤珪禅師の書は、どれも謹厳で、寄りつきがたい威厳があります。
今回特別に展示された「不生」の二文字などは、字が光を放っています。
ひとつひとつの墨蹟の前に、しばし坐っていると、祖師の息吹が伝わってくるようでありました。
そんな素晴らしい書画に触れて感慨にふけっていたところ、気がついたら自分の講演の時間になっていました。
平素からお世話になっている小川隆先生や椎名由紀先生、それに佐々木奘堂和尚もお見えくださって、些か緊張のうちに講演を無事済ませてきました。
盤珪禅師は、「只仏心で寝、只仏心で起き、只仏心で住して居るぶんで、平生、行住坐臥活き仏ではたらき居て別に子細はござらぬわひの」と説かれています。
ある方が禅師に質問しました。
禅師のお示し通りに、何のはからいもせずに、仏心でいればいいという教えは分かりやすい教えですが、しかし、それではあまりに教えが軽すぎるのではないか、そんな程度でいいのでしょうか、と聞くのです。
それに対して盤珪禅師は、仏心でいるということが、あなたのいうように本当に軽いことであるのかと説きます。
あなたは尊い仏心を具えていながら、そのことをなんでもないことのように思って、何かに対してすぐに腹を立ててしまって修羅の心にしてしまったり、欲望にかられて餓鬼の心に変えてしまう、それが軽すぎるのだと説いています。
仏心であることは軽すぎることはないのだと仰せになっているのです。
私が説いているように、仏心のままでいればいい、仏心のままで暮らすというのは軽すぎることはないという教えです。
仏心のままで暮らすこと以上に重く尊いことはないのだから、私がいうことをよく聞いて。仏心で暮らすようにしなさいと説かれました。
仏心のままで暮らすということが具体的にどういうことなのかというと、我欲を出して、仏心を餓鬼の心にし替えてしまったり、嗔りを起こして修羅の心にし替えてしまったりせずに、もとも仏心のままでいればいいというのであります。
こういう盤珪禅師のお示しに対して、朝比奈宗源老師は、盤珪禅師の頃のように、お坊さんたちも出家という名にふさわしく、家族を持たずに私有財産も持たずに、清らかなお寺で簡素な暮らしをして、決められた通りに坐禅したりお経を読んでいれば、それは盤珪禅師の仰るように、不生の仏心のままの暮らしているという感じもするでしょうし、まわりの者がみてもあやしむこともなかったろうと仰せになっています。
そういう生活ができていれば、悟りとか修行の本質ははっきりしなくてもそれで済んだろうというのです。
宗教の長い歴史には、そうした生活が宗教生活だと言われていたのでした。
伝統という名のもとに守られてきたものでもあります。
しかし、朝比奈老師は、これは極めて危なっかしい安心だと指摘されています。
それは、そのような決められた通りの暮らしが崩れた時に、その安心も崩れてゆくからだというのです。
何事もない時には、清らかに取り澄まして、穏やかな心境に見えても、いざとなると、なにもならないことが多いというのであります。
これを白隠禅師は、鼠の浄土で猫の一声と言ったというのです。
一見穏やかそうに見えているだけで、とっさの時には、右往左往してしまって取りつく島もなくなってしまうのです。
ただ作法通りに行うことも修行では大事なことであります。
規律正しい生活というのは見た目にも美しいものです。
しかし、それだけは何かとっさの時に対応ができません。
今回のコロナ禍でもそのようなことが露呈した感がありました。
伝統に安住している私たちの世界では、今までのことができないと大きな動揺を生みました。
しかしながら、禅の本質は、型どおりのことを型どおりに行うことにあるのではありません。
馬祖道一禅師の教えを、駒澤大学の小川隆先生は、即心是仏、作用即性、平常無事という三つに要約してくださっています。
「即心是仏」とは、自らの心がそのまま仏であることです。
「作用即性」とは、自己の身心の自然なはたらきはすべて仏性の現れにほかならないということです。
「平常無事」とは、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよいということです。
「自己の心が仏なのであるから、自身の営為はすべてそのまま仏作仏行に」ほかならないというのであります。
この自覚がはっきりしていれば、どのような状況になって、どのように対応してもそのはたらきはすべてそのまま仏作仏行なのです。
悉くが、仏心のままの営みなのです。
その自覚が出来ていれば、臨済禅師が「境に乗る」と言われたように、その環境に応じて自在に対応できるのです。
その自覚には、やはり臨済禅師の仰る「体究錬磨」が必要なのだと、修行の大切さを説いたのが白隠禅師でありました。
やはり日々の修練と体究錬磨の末の自覚が大事であります。
横田南嶺