真理もない空
その次の日の八日は、花園大学での講義でありました。
朝からきれいに晴れていて、空気も澄んで、木の葉も散り始めていました。
まさに爽やかな日でありました。
大学には、何カ所か掲示板があって、いつも拝見するのが楽しみであります。
正門のところには、毎月総長の言葉が大きく掲示してくれています。
今月の総長、私の言葉というのは、
どこの土になろうとままよ落ち葉かな
枯れ葉が散る。どこに散るのだろうか。
風に任せて、地に落ちる。そしてその大地に帰る。
大地からはやがて芽が出て、木になり、葉が茂ることだろう。
いのちの循環である。
というものです。
他にも素晴らしい言葉が掲示されていました。
今回も心に残る言葉があったので紹介します。
「慈善とは、犬に骨をあげることではなく、
犬と同じくらいの空腹な時に、
犬と骨を分け合うことである。」
というジャック・ロンドンの言葉がありました。
考えさせられます。
犬がかわいそうだから、骨をあげるというのは、私と犬と別々に分けてみて、犬をかわいそうと見ているのです。
講義をする教堂という建物の前には、
「やがて消えてなくなる
お互いのこの肉身、
この無常の身体の
真っただ中に永遠を
発見しなけれんばならん」
という山田無文老師の言葉がありました。
講義のはじめにこの言葉を取り上げました。
この体はやがて消えてなくなります。
無常なる身体という通りに、無常そのものです。
やがてではなく、今現に朽ちつつあるのです。
それが無常です。
しかし、大事なことは、この無常なる身体の他に永遠なるものがどこかにあるのではないのです。
この体は無常だけれども、たとえば魂なるものがあって、その魂なるものが体から抜け出て永遠に生きるというものではないのです。
この無常なる身体の真っただ中にと無文老師が仰せになっているように、この無常なる身体がそのまま永遠なるものなのです。
無常なる身体は、般若心経でいう色であります。
永遠なるものは、般若心経でいう空であります。
色の他に空があるのではなく、色がそのまま空なのであります。
むしろ、この無常なる身体と永遠なるものと二つに分けることに問題があるのです。
犬がかわいそうだから、骨をあげるというと犬と私と分けています。
花が枯れそうだから水をやるというのでは、花と私と分けています。
花が私であり、私が花なのです。
花に水をあげるのは、私が水を飲むのと全く同じなのであります。
空というのは、この二つに分ける考えを離れているのであります。
分かるということは、分けることから始まります。
空は分けることをしません。
分けようがないのです。
ですから分からないのであります。
分からないというのが正解なのです。
分けられないのです。
むしろ分かろうとするのが迷いなのです。
鍵山秀三郎先生が、分かっているというのは、謙虚さのない心だと仰っていましたが、傲慢な心でもあります。
そんなことを話をして、今回の「無苦集滅道」という四諦の否定について話をしました。
四諦というのは、ブッダの教えの根幹であります。
岩波書店の『仏教辞典』にも
「諦とは真理の意で、苦(く)諦・集(じっ)諦・滅(めっ)諦・道(どう)諦という4種の真理のこと。」
と解説されています。
そして「しばしば鹿野苑(ろくやおん)(サールナート)における初転法輪の内容とされ、初期仏教の中心的教義の一つとされる。」
というのであります。
お釈迦さまがお亡くなりになる時にも、弟子達に四諦の法について疑うところがあれば聞くように促し、三度疑いがないか問いましたが、だれも問う者はありませんでした。
そこでアヌルダ長老が、お釈迦さまに、
たとえ月が熱くなるようなことがあっても、たとえ日が冷たくなるようなことがあっても、仏の説き給う四諦の法は真理であることを述べました。
苦諦は、実に苦であって決して楽ではないこと、集諦は苦しみの原因であって、無明渇愛の他に苦の原因はないこと、原因が滅すれば結果もなくなるという滅諦が真理であること、苦を滅する道は真実であることをお釈迦さまに述べています。
しかし、その四諦もないというのが般若心経なのです。
山田無文老師の『般若心経』には次の達磨大師の話を用いて説明されています。
「しかし、苦集滅道も無し。 その四諦もないのであると。
達磨大師がインドからこられて、まず梁の武帝に会われた時のことであります。
この武帝というのは、当時、仏心天子といわれるほどの仏教信者で、寺もたくさん建て、何人もの坊さんを育て、自らは袈裟を着て放光般若経の講釈もするというような、熱心な方でありました。
そこで、達磨大師がこられた時に武帝は、
「朕、寺を起て僧を度す、何の功徳か有る わしは多くの寺を造り、何万という僧侶を育ててきた。いったい、その功徳はいかがなものであろうか」
と尋ねられた。
すると、達磨大師は、いともあっさりと、「無功徳―功徳なぞござらん」と答えられた。
もしも、武帝が何ぞ功徳でもあると思って、寺を建てたり僧を育てたりしたのであるならば、それは正見でも、正思惟でもなく、正業でも、正精進でも、正念でもありません。
達磨大師が「無功徳」と喝破されたのはあたりまえです。
そこで、武帝はさらに尋ねた。「如何なるか是れ聖諦第一義」
すると達磨大師は、「廓然無聖ーカラーッとしてありがたいものは何もない」と答えられた。
世間の因果さえも認めないのだから、出世間の因果などもちろんない。
聖諦もなければ、第一義もないのだと。
まことに真の悟りの世界には、苦諦も、集諦、滅諦も、道諦もなく、聖諦第一義もないのであります。
般若の智慧、 空の世界は秋晴れの空のごとく、カラーッとして仏見、法見さえもないのであります。
そこのところを、般若心経は「苦集滅道も無し」と示されておるのであります。」
というのであります。
秋晴れの空を見ながら、四諦という真理もない空を思うのであります。
横田南嶺