じねん
しあわせもの僕
この眼があいて
自然が見える
しあわせものと僕を思う
この耳が澄んで
小鳥が聞こえる
しあわせものと僕を思う
この傷がなおって
このくわがにぎれる
しあわせものと僕を思う
なんでもないこの自然の景色が見える、風を肌で感じる、虫の声を聞く、こういうところにこの命の不思議が働いています。
また自然と傷もなおってゆくのも不思議であります。
有り難いことであります。
寺というのは、自然の中にございます。
また私が暮らしている建物も、関東大震災の後に建てた物なので、古い建物であります。
そうしますと、動物や虫がたくさん一緒に暮らしているのであります。
夏の蚊などは、実にたくさんいます。
秋のトンボが飛んでくるのは、風情があっていいのですが、あまり喜ばしくないものもいるのが自然であります。
手のひらほど大きな蜘蛛に会うこともありますが、この蜘蛛というのは、見た目は実に不気味ではありますが、いたっておとなしく人間に危害を加えることはありません。
ゲジゲジなどもかなり大きくなるのですが、これもまた見た目と異なり、穏やかな虫なのです。
何年寺に暮らしていても慣れないのがムカデであります。
かなり大きくなるものであります。
見た目も不気味ですが、噛まれるとたいへんなのであります。
かなり痛いし、かなり腫れます。
近年ムカデに噛まれること無く過ごしてきましたが、昨年一度足を噛まれ、今年には手を噛まれてしまいました。
実に大きく腫れるものであります。
別段薬もなにもつけずにそのままにしておくのですが、三日ほども経てば自然と治ってゆくのであります。
あんなに腫れ上がっていたのが、自然と治るというのは不思議だと思うのであります。
人間の体というのは自然であって、実に偉大だとしみじみ思います。
自然というと、『広辞苑』には
「(ジネンとも)おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。
人工・人為によりなったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからあるいは超越的なものによる生成・展開によって成りいでた状態。
超自然や神の恩寵に対していう場合もある。
おのずからなる生成・展開を惹起させる力としての、ものの性。本性。本質。
山川・草木・海など、人類がそこで生まれ、生活してきた場。特に、人が自分たちの生活の便宜からの改造の手を加えていない物。また、人類の力を超えた力を示す森羅万象。」
などの意味が書かれています。
今年の7月のこの管長日記にも書いています。
岩波書店の『仏教辞典』には
「自然」と書いて「じねん」とはっきり読んでいます。
解説には、
「日本では古来<しぜん>(漢音)、<じねん>(呉音)両様のよみが行われ、平安末期の古辞書『色葉字類抄』などにも両様のよみがみえる。
しかし、古くは仏教語に限らず概して<じねん>のよみが優勢だったようで、平安中期以後の仮名書き例にも<じねん>が多い。」というのです。
「<自然>とは<自(おのずか)ら然(しか)る>、すなわち本来的にそうであること(そうであるもの)、もしくは人間的な作為の加えられていない(人為に歪曲されず汚染されていない)あるがままの在り方を意味する。」
というのであります。
自然を悪い意味に使う場合もあって、「自然外道」というのがあります。
『広辞苑』には
「〔仏〕あらゆる結果は原因なしに自然に生じたものと考える学派」と解説されています。
これは残念ながら「人間の努力を否定した邪説として、宿命論とともに強い批判が仏教から向けられた」というのです。
逆に
「仏教が肯定的に使う<自然>とは、事物をあるがまま(自然)に生かし、自己を自由・自在(自然)に生かすということである。」というのであります。
また「日本の中世において、仏教界はいうに及ばず、一般思想界でも、共通して<自然>が強調された。
たとえば、法然(ほうねん)という名は<法爾自然(ほうにじねん)>の略であり、親鸞(しんらん)には『自然法爾章』と名づけられた文がある。」
というのであります。
「自然法爾」という言葉は鈴木大拙先生もよく用いられています。
『無心ということ』の中で
「自然法爾」の端的という章があって、
「自然法爾の文を読んでみます。
間にときどき私注を入れさしていただきます。
「自然といふは自は、 自といふことで、行者の計らひにあらず」
無量寿経を読んでみても、所々に自然、自然ということが出てくる。
自分を標準にした計較分別でないということなのです。
「然といふは、然らしむといふことばなり」ーすなわち自分の分別で測度したことでなくして、向うから、いわゆる客観的に、あるいは絶対的にそうなってくるんだということです」
と説かれています。
ZEN呼吸法主宰呼吸アドバイザーの椎名由紀先生も「ジネン塾」を主催されています。
先日も稲刈りについて書きましたが、台風でほとんどの田んぼの稲が倒れていたのに対して、椎名先生の田んぼの稲は倒れることなく、すっくと立っていたのでした。
その後、椎名先生から詳しい解説をいただきました。
ジネン塾の田んぼは、無肥料で無農薬だというのです。
椎名先生の説によれば、「肥料を入れるほど大地のジネンは失われますので、毎年大量の肥料が必要となり、土はどんどんやせていくという負のスパイラル」になるのだそうです。
椎名さんの田んぼの周囲では、九割以上の稲が倒れたそうなのですが、「化学肥料が存分にあるため、根を伸ばす必要がなく、どんどん上に伸びて、根は細く短く背丈だけは高いため風雨ですぐに倒れる」ということです。
上虚下実ではないのです。
「根がしっかりとして自分に必要な、自分を支えるに足る太さや長さがあるので、台風でも倒れないということです。
人間も同じで「肥料をあげすぎると弱くなり倒れる」というのであります。
実に考えさせられることであります。
大拙先生は『日本的霊性』の中で「大地性」ということを説かれています。
一部を引用しますと、
「人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。
人間はその力を大地に加えて農産物の収穫に努める。
大地は人間の力に応じてこれを助ける。
人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。
誠が深ければ深いだけ、大地はこれを助ける。
人間は大地の助けのいかんによりて自分の誠を計ることができる。
大地は 詐らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。
人間の心を正直に映しかえす鏡の人面を照らすが如くである。
大地はまた急がぬ。
春の次でなければ夏の来ぬことを知っている。
蒔いた種子は、その時節が来ないと芽を出さぬ、葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かせぬ、従って実を結ばぬ。
秩序を乱すことは大地のせぬところである。
それで人間は、そこから物に序あることを学ぶ、辛抱すべきことを教えられる。
大地は、人間にとりて大教育者である、大訓練師である。
人間は、これによりてみずからの完成をどれほど遂げたことであろうぞ。」
というのであります。
お互いに今一度このじねんに生かされていることを見直し、大地に学ぶ必要を感じます。
横田南嶺