何があれば幸せか
十月九日には「大変なことが続いても」という題で書かれていました。
「朝晩は肌寒く感じられる季節になった。日中歩いても汗だくになることはないので助かるが、一方で「早くマスクなしの生活にならないかなあ」という声も聞く。」
という文章で始まっています。
確かに十月になって急にひんやりとして来ました。
それと共に、いつになったらマスクを外して暮らせるようになるのかと思います。
外を歩くような時はもうしなくてもいいと言われても、屋内に入る時にはマスクをしないといけませんので、窮屈といえば窮屈であります。
もう慣れたとはいえ、そろそろいいのではないかと思ってしまいます。
海原先生も
「これから冬に向かい乾燥する季節が来るから当分は無理だろうと思うのだがマスクなしの生活という当たり前であった生活がすでに遠い昔のように感じられる。」
と書かれています。
マスクが定着するのではないかとか、コロナがおさまってもマスクをしたままではないかという声も聞こえますが、なんといっても息苦しいのと、お互いの表情が分からないというのは、困りものであります。
しかし、海原先生は、
「ただその当たり前の生活のころ、マスクをしないことが幸せ、と感じたかと聞かれたらノーである。」
と書かれています。
確かにその通り、コロナ禍の前に、マスクのないことが幸せだなどと思いもしませんでした。
あたりまえすぎたからであります。
海原先生は「何事も当たり前だと思っていることはそれができる時はありがたみを感じることがなくて、できなくなって初めてわかるものらしい。」
と書かれている通りなのです。
有り難いということは、そのものを無くすか、無くしかけて初めて気がつくものであります。
失って初めて知る尊さを失う前に知るということは容易ではありません。
私たちが修行道場というところで、あえて何も無い中で、厳しい過酷な環境で修行するのは、今まであたりまえだと思っていたものを一度すべて奪うことによって、大事なことに気づかせる為なのだと思います。
修行道場に入る前までは、あたりまえのように普段足を伸ばしてくつろぐということができましたが、それができなくなります。
好きな時に好きなものを飲んだり食べたりできていたのが、一切できなくなってしまいます。
通信機械もあたりまえのように使えていたのが、使えなくなってしまいます。
あたりまえのように冷暖房を使っていたのが、一切使えないどころか、無いのであります。
そうなると、はじめはたいへんですが、だんだん慣れてくるにつれていろんなことに気がつくようになってきます。
例えば月の明かりに感動するようになります。
夜あたりまえのように明かりをつけていた暮らしでは気がつきません。
暗闇になってこそ月の明かりに気がつくのです。
真っ暗な中だけに、お月様の光がなんと尊く有り難いことかと感動するようになります。
それから、たしかに暖房がないので寒いのですが、そのおかげで日の光の温かさに感動します。
日なたの暖かさなのです。
はじめの頃は朝のお粥などは、すぐお腹が減ってしまってたいへんだと思うのですが、このお粥の暖かさに感激するようになります。
あたたかさを感じるものといえば、それくらいしか無いのであります。
無いからこそ、有り難いことに気がつくのであります。
海原先生は「以前大腸がんの手術の後なんども腸閉塞(へいそく)を起こして入退院を繰り返しながら家業を楽しんでなさっていた女性の言葉を思い出すことがある。」と書かれています。
それは「大変なことがあると幸せの閾値が低くなるんですよ。小さなことがとても幸せに思える。普通に排便することができるとアーよかった、なんてみんな思えないでしょう」というのであります。
海原先生は「笑いながら語ってくれた言葉に「当たり前のことを幸せに感じる」ヒントがあると思った。でもなかなかむつかしい。人は持っているものの価値や幸せに気づかないものだ。時々は自分の当たり前を見直してみたい。」
と文章を終えていらっしゃいました。
幸せの閾値が低くなるというのは、幸せのヒントだと思います。
閾値が高いと、何があっても不満しか出てきませんし、不幸にしか感じません。
ギリシャの哲学者のエピクロスは、
「飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと」
これさえあれば幸福だという意味のことを言っていました。
そうなると臨済禅師の言葉を思い起こします。
『臨済録』にある有名な言葉であります。
岩波文庫の『臨済録』の入矢義高先生の訳を引用させてもらいます。
「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。」
というものです。
「痾屎送尿、著衣喫飯、困じ来たらば即ち臥す」というものです。
大小便をすること、服を着てご飯を食べること、疲れたら眠れることなど、どれもあたりまえのように思っていますが、じつはこれこそが幸せであり、単に幸福だけでなく、仏法の究極でもあるのです。
横田南嶺