弱さに学ぶ
十月九日の放送でした。
シリーズ「問われる宗教と“カルト”」 前編
番組の案内によれば、
「安倍元首相銃撃事件を機に問われる“カルト”そして宗教のありかた。
宗教問題の現場・最前線で活動してきた研究者・宗教者6人が一堂に会し2回シリーズで徹底討論する」
というものです。
六人というのが、
旧統一教会の問題を現場で調査研究してきた櫻井義秀先生、
日本脱カルト協会顧問として学生の救済に尽力してきた川島堅二先生、
カトリック信徒の批評家・若松英輔先生、
進行役が小原克博先生で、釈徹宗先生、島薗進先生が出ていらっしゃいます。
中でも若松先生の言葉に注目して書き取りました。
若松先生が、次のように指摘されていました。
「宗教と言うのは一歩間違えばカルトになるということです。
そのことをよく考えてみなければならなくて、何がそこに歯止めをするのかということ、絶対超えてはならない壁というのは何なのかということを考えなくてはいけない。
ですので、私は大きく三つあると思います。
一つは恐怖、恐怖によって人を縛り付けようとするもの。
世の中で、これはまっとうな宗教と思われているものも、ところが、仮にそれをやったとしたら、それはカルトなんです。
看板は関係ないのです。恐怖によって人を縛り付けてしまったら、それは宗教と呼ぶに値しない。
あともうひとつは搾取です。
搾取というのは、今問題になっているのは、持たざる者から、その人が生活を破綻するまで、なにかを搾取しようとすることです。
搾取するというところには、本当の意味での自由が無いのです。
あともう一つは、拘束なんです。
宗教が本当に宗教であることであれば、出入りは自由なんです。
そこに属している、属していないということが本当に自由に行われる。
人生のある時期にとても熱心に宗教活動していたけれども、ある時期にしなくなるということが何ら問題にならない。
宗教というのは、その扉に鍵がかかっていないはずなのです。
もし何らかの宗教が内側から鍵をしめるようなことをすれば、それは宗教というに値しない。
だから私たちは、今この時代にカルトというのは何かを考えるのはとても大事な問題なのですけれども、宗教が知らず知らずのうちに、恐怖と搾取と拘束というものをしてないかということをもう一度考えてみたい。
私たちがその中のひとつでも自分の中に触れるものがあったら、どんなに歴史的な看板がそこにあったとしても私たちはやはり一回距離をたもつべきだと思います。」
という言葉でありました。
恐怖によって人を縛り付けるということを、宗教家の多くはしてしまいがちであります。
そんなことをしたら、地獄に落ちるぞというのは常套文句でありました。
拘束も又、残念ながら宗教、特に教団にはつきものであります。
番組の中でも他の先生が、キリスト教でも、教会を移ったりすることは実際には難しいことなどを指摘されていました。
若松先生の仰るようにはゆきがたい一面もあろうかと思いました。
そういうことを考えると、宗教とカルトの境目というのは実に難しいものだと思います。
若松先生の話を伺って、書棚から若松先生の『弱さのちから』を出して目を通していました。
これはコロナ禍となって、すぐに出された本です。
二〇二〇年八月の出版なのです。
「弱い自分」という章に
「いま いちばん
たいせつなのは
弱い自分から
逃げないで ちゃんと
向き合うこと
むやみに
強がったりしないで
いろんなことに
傷つき
おびえている自分から
目をそらさずに
見届けるのが仕事
とっても
忙しいから
いつも通りに
していることなんか
できない
自分は弱い、そのことを認めるとさまざまな不調は次第に癒えていった。今も完全ではない。
だが、その状態を「生のゆれ」として感じ得るようにはなってきた。」
という文章があって考えさせられます。
更に
「「弱い」立場に立ってみなければ「弱い人」は見えてこない。さらにいえば「弱い人」の多くは、人の目の届かないところにいる。
「弱い人」との関係を考えると、思い出されるのは、精神科医でもあった神谷美恵子の主著『生きがいについて』の冒頭にある一節だ。
平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。
神谷がいうように「弱い人」が「あちこちにいる」ことについて、私たちもまた、そう認識できていたならば、社会の現状は、今とはまったく違った姿をしていたのではないだろうか。」
という言葉もございます。
宗教というのは、そういう弱い人の声に耳を傾けることから始まったものであります。
何度か紹介していますが、
坂村真民先生の詩に、
弱いままに
信仰によって
強くなるのではない
弱いままに
助けられ
守られてゆく
その喜びのなかに生きる
それが本当の信仰である
というのがございます。
私たちの禅の修行というと、どうしても強くなることを求めがちであります。
暑さにも寒さにも負けず、どんな艱難辛苦に耐え抜く強さを求めるところがあります。
そのために「弱さ」を顧みないようでは考えものなのです。
若松先生は、
「…これまで世の中は、「弱い人」に、あまりに早急に 「強く」なれと強いてきたのではなかったか。
弱音を吐くことができない人たちが、どこかに追いやられているのではないだろうか。
弱音を聞くと、人は自分にも弱いところがあることに気が付く。
そこを直視するのが嫌で、弱音を口にする人を遠ざける。だが、そのいっぽうで、ひとたび「弱く」なってみなければ見えない世界の深みがあることを、今私たちは、日々、実感しているのではあるまいか。
「弱い人」は何もしないのではない。むしろ、他者の「弱さ」を鋭敏に感じ、寄り添える人でもある。
私たちは「弱い人」たちを助けるだけでなく、 「弱い人」たちにもっと学んでよい。」
と書かれています。
他者の「弱さ」を鋭敏に感じ、寄り添えるということは、宗教の本質なのだと思います。
弱さについて語る若松先生の言葉には大きな力を感じます。
横田南嶺