自然
自然という言葉をいつものように『広辞苑』で調べてみると、
たくさんの説明があるのですが、大きく分けて三つの意味が書かれています。
第一には、
「(ジネンとも)おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。」
をいうのであります。
「ひとりでに」という意味に使われることもあります。
それから二番目には
(physis ギリシア・natura ラテン・nature イギリス・ フランス)人工・人為によりなったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからあるいは超越的なものによる生成・展開によって成りいでた状態。超自然や神の恩寵に対していう場合もある。」
という意味があります。
こちらは西洋のネイチャーの訳語しての自然であります。
そのほかにもたくさん意味がありますが省略します。
そして三番目には「人の力では予測できないこと」という意味があるのです。
『広辞苑』の第一の意味のところに「じねん」ともと書かれていましたが、「じねん」も載っています。
「じねん」とは「おのずからそうあること。本来そうであること。ひとりでに」という意味であります。
仏教では「自然法爾」という言葉を用います。
「自然法爾」は『広辞苑』によると、
「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。
親鸞はこれを念仏信仰にあてはめ、阿弥陀仏の力によっておのずから往生が成り立つこととした。」と説明されています。
「自然」ということを考えると、やはり鈴木大拙先生を思います。
大拙先生に『禅のつれづれ』という著書があります。
この本は、もともと一九六六年に『大拙つれづれ草』という題で発行された本でした。
私が中学生から高校生の頃に愛読した本でした。
ただいまは『禅のつれづれ』という題で、河出書房新社から出版されていて読むことができます。
大拙先生は、この本の中で「全世界の人間の自覚を催進させ、またその平和と幸福とを将来するように」するには、
「一口にいうと「自然」にかえれ」と唱えられています。
「「自然」の再認識である」というのです。
「日本的なるものを通じて「自然」の何ものたるかを「自覚」するのである」と説かれています。
その自然もわざわざカギ括弧をつけて書かれています。
なぜカギ括弧をつけたかというと大拙先生は、
「西洋語のネーチュアまたはラ・ナトュールの義に使われておるのに、対抗させて使いたいから」だというのです。
大拙先生は
「近来といっても、それは今からほとんど百年前に、西洋の文化、西洋の思想のように、わが国に流れこんで来たとき、ネーチュアに対する適当な言葉がないので、やたらに古典をさがした結果「自然」を最もしかるべしとして、採用したのである。
これがわれらをして、東洋的思想の中で最も大切で根本的なものを、忘れ去らしめた事由となったのである。」
と嘆かれています。
大拙先生は、
「西洋思想のネーチュアと、東洋思想の中枢を作り上げている「自然」とは、似たところもあるが、大いに同じからざるものがある」というのであります。
大拙先生はそこから東洋の自然について、
「自然」のはじめて用いられたのは、老子の道徳経で「道は自然に法とる」とある。この「自然」は「自から然る」の義で、仏教者のいう「自然法爾」である。
他からなんらの拘束を受けず、自分本具のものを、そのままにしておく、あるいはそのままで働くの義である。
松は松のごとく、竹は竹のごとくで、松と竹と、各自にその法位に住するの義である。」
と指摘されています。
そこから更に「自然」の本質について語っています。
少々長いのですが、そのまま引用させてもらいます。
「西洋のネーチュアには「自然」の義は全くないといってよい。
ネーチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、いつも相対性の世界である。
「自然」には相対性はない、また客観的でない。
むしろ主体的で絶対性をもっている。「自己本来に然り」という考えの中には、それに対峙して考えられるものはない。
自他を離れた自体的主体的なるもの、これを「自然」というのである。
それで道は自然に法(のっ)とりて存するというのである。
西洋のネーチュアは二元的で「人」と対峙する、相剋する、どちらかが勝たなくてはならぬ。
東洋の「自然」は「人」をいれておる。
離れるのは「人」の方からである。
「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。
それで自分をまっとうせんとするには「自然」に帰るより外ない。
帰るというのは元の一になるというの義である。
「自然」の自は他と対峙の自ではない、自他の対峙を超克した自である。
主客相対の世界での「自然」でない。
そこに東洋の道がある。この道を再認識するのが、日本人にとりては、日本の再発見である。
「『自然』にかえれ!」である。」
と力強く説かれています。
西洋のネイチャーは人と相対する自然であるというのに対して、東洋の自然は、「人」をその中に含んでいるというのです。
もし自然から離れるとしたら、それは人の方からというのです。
これは自我意識や、自分中心、人間中心の考えによって、自然から離れてゆくということであります。
もう少し引用しますと、
「西洋のネーチュアは、いつも人間に対蹠して考えられる。
それで両者の間には相剋的性格が出る。
われ克たざれば、彼のために敗られるということになっている。
それゆえ、西洋では自然(ネーチュア)を征服するなどという。
東洋の「自然」は人間に征服せられるものでない。
人間は「自然」のもとに所在するもので、もしそれにそむくことがあれば、それは人間から仕かけたので、結局敗れるのは人間の方にある。
西洋のネーチュアの二元的なるに対して、東洋の「自然」は一元的包摂性である。「自然」に打ち克つなどいうことは、東洋には無い考えである。
「自然」には随順すること。
もしそれに克つように見えることがあっても、その実は、それに随順するにほかならぬのである。
自己を無くして「自然」と随うとき、無き自己がじきに「自然」そのものとなる・」と説かれています。
そして更に
「日本人の再発見的能力は「自然」の上に向けられるべきだ。
このような「自然」の認識が、日本人の間に、昔から無意識にあったと、自分は信ずる。
われらはいずれも「自然」の恵みによって、その日その日を送るのである。
明白に意識の表面に出て来なくても、冥々のうちに、この感覚を、われら日本人はいずれももっているのである。
「おかげさまで」という言葉はすこぶる含蓄に富んでいる。」
というのであります。
実に味わいのある言葉であります。
「われわれはいずれも「自然」の恵みによって、その日その日を送るのである」という一言は肝に銘ずべきであります。
そんな心を日本人は「おかげさまで」と表現してきたのです。
横田南嶺