祭りの意味
そんなことを思うこの夏でありました。
各地の祭りも三年ぶりに開催されたという報道をよく耳にしました。
京都の祇園祭も山鉾巡行が三年ぶりに行われたということでした。
かつて祇園の建仁寺で修行していましたが、祇園の町にある修行道場でしたので、七月十七日の山鉾巡行の時には、お休みをいただくことができたのでした。
懐かしく思いだします。
東北三大祭りというのがあります。
仙台七夕まつり、青森ねぶた祭、秋田竿燈まつりです。
どれも感染対策をしながらも開催されたとのことです。
徳島の阿波おどりは、観客席を減らすなどの対策ををとったうえで、開催されたようであります。
もっともこの夏も延期や中止せざるを得なかったところもあるようでした。
「祭り」というのは、そもそも何だろうかと思うと、『広辞苑』を調べてみると、
「①まつること。祭祀。祭礼。俳諧では特に夏祭をいう。
②特に、京都賀茂神社の祭の称。葵祭。
③近世、江戸の二大祭。日吉(ひえ)山王神社の祭と神田明神の祭。
④記念・祝賀・宣伝などのために催す集団的行事。祭典。」
という意味が書かれています。
もともとは祭祀、供え物をして祭ることであります。
そこから転じて、集団的な行事となっています。
祭祀行事に多くの人たちが集まって、そこで経済的にも大きな効果があるようになったのでしょう。
人類がこうして発展してきたのも、我々ホモサピエンスが共通する神話をもって、祭祀を共にしてきたことが大きかったのでした。
特にこの二年ほどは新型コロナウイルス感染症によって、お祭りができないところが多かったので、なおのことこの夏には行われたのでありましょう。
やはり人は、人と人とが出会い、同じ場に集い、共に祈りお祭りをすることには、大きな意味があるのだとしみじみ思うこの夏でありました。
九月のはじめ、長野県松本市にある神宮寺の谷川東顕和尚の晋山式に招かれて行ってきました。
谷川和尚のことは、今年の六月十四日の管長日記にも書いています。
三十五歳の新住職であります。
晋山式というのは、新しく住職になったことを披露する式典なのであります。
コロナ禍でいろいろご苦労されたと思いますが、盛大に挙行されました。
特に感激したのは、稚児行列も盛大に行われたということです。
稚児というのは、『仏教辞典』によれば、
「乳児・幼児からやや成長した児童までを指す称。古来、神霊の憑(よ)り付きやすい者として神事に奉仕し、祭礼などに美しくよそおって行列を組んだり、舞を舞ったりする。」のです。
新住職は、寺の外からお稚児さんと共に行列をなして寺に入ってくるのであります。
いわば「お祭」と言える行事なのであります。
最近は、子供が減って稚児行列は難しいという声をよく耳にするのであります。
そんな中であるからこそ、谷川和尚のお寺で七十名もの稚児行列がなされたことは素晴らしいものです。
費用もかかりますので、なかなか集まりにくいのですが、これもひとえに谷川和尚のご人徳によるものにほかなりません。
折しも前日まで強い雨が降っていましたが、当日の朝晴れてくれたのでした。
こういう行列は天気次第なのでありますが、お天気も谷川和尚の晋山をお祝いしているようでありました。
京都からは谷川和尚が修行された建仁寺の管長さまがお越しくださっていました。
私は、恐れ多くもその次席にお招きしてもらったのでした。
本堂には六十名ほどの和尚様方、そして檀家の方々が集まってくれていました。
本堂に入りきらないお檀家さんは、ホールでビデオをご覧いただいていたのでした。
こんなに盛大な晋山式は私も近年にないものでありました。
やはり、これは谷川和尚の熱意に外なりません。
谷川和尚とは、別に円覚寺で修行されたわけでもないのですが、数年来一緒に勉強会などをさせてもらってきたのでした。
そんなご縁で、特別お招きいただいて、式典の終わりには、建仁寺の管長さまのお言葉の次にお祝いの言葉を述べさせてもらったのでした。
私を紹介してくれるのに司会の方が、谷川和尚がご指導いただいている円覚寺の管長とありましたが、ご指導いただいているのはこちらの方だという思いです。
私が祝辞で申し上げたことはただひとつ、
「こんないい和尚はいない」ということでした。
寺離れなどという言葉も耳にするこの頃ですが、それはそこにいる和尚の気持ち次第だと思いました。
今の時代に、稚児行列なんて集まらない、晋山式も無理だと思っていてはなにもできないでしょう。
和尚の熱意、決意があればできるのだと学びました。
谷川和尚からいただいていた神宮寺の時報『山河』の二〇二二年住職就任臨時号に谷川和尚は次のようにご自身の決意を述べられています。
「「檀家のため」。
この言葉を先代の高橋通方和尚はことあるごとに何度も口にしていた。
檀信徒のことを第一に考えてさえいれば間違いない。
この言葉はわたしの指針にもなっている。
通方和尚は檀家さんのために何ができるのかずっと考えてきたに違いない。
そしてそんな意志に呼応するように檀信徒も集まってきた。
人が集まれるようにホールを作り、より人が来やすいように駐車場を買い取った。
また、他に類を見ないような寺報を作ったり、お寺の会計を公開したりとお寺の改革にも余念がなかった。
そして、わたしが神宮寺に入りたいと思った一番のきっかけは神宮寺のお葬式の在り方だった。
故人、家族のためのお葬式を作り上げるために苦労を厭わなかった。
そうして突き進んできた住職の姿、生き様を見て学んだ。
檀信徒の方々に護られ、お寺は次の世代へとつながっていく。
住職には次の時代へ橋渡しをする使命がある。
わたしはこのお寺で住職として何をしたいのか。何をしなければならないのかとずっと考えている。
この足りない頭では結局答えは出ていない。しかし頼るべき道筋はある。
通方和尚が作り上げた神宮寺を受け継いでいきたい
これがわたしの今の率直な気持ちだ。
NPO法人の運営をしたり講演会に飛び歩いたりと通方和尚のように同じことなど到底できるはずもないし、わたしにはそんな能力もない。
しかし、これまでどおりお寺の会計を公開したり、寺報を作ったり、丁寧にお葬式を作り上げていくことならわたしにもできるはずだ。
そしてその根幹となるのが「檀家のため」という意志。
これだけは片時も忘れてはならない。」
というものです。
文章からも熱意がよく伝わります
谷川和尚は神宮寺にお生まれになった方ではありませんでした。
別のお寺のご子息でしたが、ご自身の生まれたお寺は嗣がずに神宮寺にお入りになったのでした。
やはり、そこにはなみなみならぬ決意があったのだと察します。
そんな熱意に多くの人が集まって盛大なお祭になったのでした。
みんなで集まる祭りには意味があるとしみじみ感じ入ったのでした。
横田南嶺