人間の愚かさ – 戦争ばかりする人間たちはいつかこの地球から消えてゆくだろう –
「あらゆる宗教は慈悲の修行を勧めるという点で共通しています。
慈悲を動機とする非暴力という基本的な「行」は、私たちの日常生活ばかりか世界中の国々においても必要とされているものなのです。」
「非暴力」というのは、基本的な「行」だというのです。
「行」であるというのは、実践なのだということです。
非暴力を実践しなければなりません。
たったこれだけのことも、実践できないのが、悲しいかなお互いこの人間なのであります。
国と国、人と人、暴力というのは、無くそうと皆努力するのですが、残念ながら無くならないの実際であります。
『坂村真民全詩集第八巻』にこんな詩がありました。
予言
戦争ばかりする
人間たちは
いつかこの地球から
消えてゆくだろう
そして
熊や象たちの
世界となるだろう
空もきれいになり
海もきれいになり
吹く風もすがすがしくなり
神さまも
仏さまも
何の心配もなく
鳥たちと一緒になり
母なる地球に
祝福を
与えてくださるだろう
わたしが飛天になろうと
願ったりするのも
そんな世界を
見たいからだ
ハッとさせられる言葉であります。
これほどまでに戦争や暴力を繰り返してしまうのであれば、ほんとうにやがて人間は消えてしまうのかもしれません。
そして熊や象たちや、動物たちだけの世界となるかもしれません。
愛
愛を
失ってしまった
人間たち
愛を持ち続けている
動物たち
愛媛という県に
移り住んで
愛という字を
誰よりも多く
書いてきた
わたし
山は父
川は母
山はきびしく
川はやさしく
愛に輝く
ああ
大和の国よ
という詩も真民先生は残されています。
人間たちは、もう愛の心を失ってしまったのでありましょうか。
どうして傷つけあい、苦しみ続けるのであろうかと考えさせられます。
その苦しみは、いったいどうして起こるものなのか、『ダライ・ラマの仏教入門』から学んでみましょう。
次のように書かれています。引用させてもらいます。
「それではこのように苦のもととなる行為はどこから起きるのでしょうか。
それは「愚かさ」(癡)、「怒り」(瞋)、「欲望」(貪)という「三大煩悩」(三毒)から生じます。」
と明言されています。
チベットに伝わる十二縁起の絵には、愚かさは豚、怒りはヘビ、欲望は雄鳥で表わされています。
「絵によっては豚が雄鳥とヘビの尾をくわえている形で描かれたもの」もあるそうで、
それは
「「欲望」と「怒り」が「愚かさ」に根ざしていることを表わします」というのです。
愚かさとは、真理を知らない無知であります。
その無知について、『ダライ・ラマの仏教入門』には、ナーガールジュナ(龍樹)の『空についての七十の詩』から引用されて説かれています。
「原因と条件によって生じたにすぎない事物を
真実に存在するものであると執着する意識は
仏陀によって無知と呼ばれている。」
この無知からさまざまな苦しみが生まれてくるのです。
どのようにして苦しみが生まれてくるのか、『ダライ・ラマの仏教入門』には順を追って解説されています。
「最初の段階において、対象が意識に単純に現われているときでも、それがそれ自体で存在している、すなわち実体として存在しているかのように見えます。
しかし心はあまり強く対象に関わってはいません。
二番目の段階では、対象に対する欲望が、「対象が実体として存在している」と捉える無知によって引き起こされています。「対象が実体として存在している」と捉える意識と同時に存在している、微細な欲望もあります。
しかし、欲望がより強くなったとき、「対象が実体として存在する」という思い込みは、欲望の原因となって、より強い欲望を引き起こすのです。
この場合「対象が実体として存在する」という思い込みは、欲望に先行しているために、正確には欲望と同時に存在しません。
また、三番目のレヴェルでは、実体的かつ素晴らしいものと思い込まれた対象への執着(我所執)と、自己への執着(我執)という二本の強い執着の流れは一つとなり、欲望はより一層強いものとなります。」
というのであります。
すべては移ろいゆく、空なるものであり、仮に現れた現象に過ぎないのに、それを実体視してしまい、心に執着を抱いてしまうようになるのです。
ダライ・ラマ猊下は、更に、繰り返して、
「最初の段階では、対象は実体的存在として意識に現われます。
二番目の段階では、この現われに同調した意識が、対象を実体として存在しているものと把握して、欲望を引き起こします。
三番目の段階では、実体的な素晴らしいものと認められた対象を、買って自分のものとしたとき、意識はそれを非常に価値のあるものであると思う、強力な所有観念に巻き込まれています。」
と説いています。
怒りもおなじことなのです。
ダライ・ラマ猊下は同書で、
「同じことは怒りにも当てはまります。
対象の性質について客観的に知覚している状態が最初のレヴェルです。
たとえば、何か悪いものを見て、それを悪いと判断します。これが怒りの最初の段階です。
しかし、「これは本当に悪いものだ」と思い、怒りを生じる場面に至ったとき、これは二番目の段階に入っています。
そして対象があなた自身へと関わってくると、怒りはより強くなります。
それがあなた自身に害をもたらす可能性があるように思われたとき、それはさらにより強い怒りへと展開していくのです。
したがって、対象が実体として存在していると思い込む無知は、欲望と怒りの両方を助長するものなのです。」
と説いています。
無知は、苦しみの原因なのです。
あきらかに観察して、すべては関わりあって存在している、縁起の道理を知ってこそ、初めて苦しみから解放されるのです。
ですから、仏教の祈りは、あらゆる人に正しい智慧の眼が開かれますようにと願うのであります。
横田南嶺