春鳥、春風に啼く
春になると、鳥たちも元気に鳴いています。
円覚寺にいると、この鳥たちの声が実に素晴らしく感じられます。
生命の息吹を感じるのであります。
今朝、修行僧達と坐禅堂で坐禅をしていると、カラスがずいぶんと騒いでいました。
坐禅の間、ずっと「カーカー」と賑やかに鳴いていました。
きっとカラスの世界に何かが起こったのだと思いました。
しかし、いくらカラスの声を聞いても、こちらは何を言っているのかさっぱりわかりませんので、そのまま気にせずに坐禅に集中していました。
坂村真民先生の詩を思い起こしました。
「信仰」という題の詩です。
信仰
信仰は
単純です
一羽の鳥と
話ができたら
もう求めなくていいです
これだけの詩であります。
『坂村真民全詩集 第八巻』にあります。
全集の第八巻は、真民先生の最晩年の詩が収められています。
「信仰」という詩の次には、
ただこれだけ
一輪の花の中に
神宿り給う
教典など
知らなくていいです
これだけでいいです
という詩がございます。
晩年の真民先生は、こういう高い心境に達しておられたのだと思います。
第八巻には、こういう詩もございます。
単純
何もかも
単純でいいのだと
今朝は特別
白衣観音さまに
そう告げて
祈る
というのであります。
余計なものを捨てて捨ててゆかれた真民先生の晩年の高み、深みを思います。
また第八巻にこんな詩もございます。
無条件の祈り
何何のためにという
条件のついた
祈りでなしに
まったくの
空であり
無である
宇宙的な祈りを
無条件の祈りと言う
地球の平和と
人類の幸福とを
成就達成できるのは
この祈りより外にない
米同時多発テロ事件を
きっかけとして
大きな戦争となったが
二度とこんなことが
おこらないよう
この祈りを
全人類の祈りとしよう
今の時代に、改めてこの詩を思います。
戦争が無くならないのです。
「空」「無」の祈りというのは、わが思惑を離れて、天地大自然の運行のままに身を委ねることだと思います。
そんなことを思っていると、毎日新聞の三月二十四日の朝刊に「鳥は会話ができるのか?」という記事がありました。
「動物が単語や文章を使って会話をしているー。
ファンタジーなどで描かれてきたことが実際の自然界で起きていると、世界で初めて証明した若手研究者が京都大にいる。
長野・軽井沢の森へ通うこと15年以上。「鳥の言葉が分かる男」の挑戦を追った。」という記事であります。
京都大白眉(はくび)センターの鈴木俊貴・特定助教(38)のことが書かれています。
鈴木先生は、軽井沢の自然豊かな森の中が実験室なのだそうです。
そこで、「シジュウカラ」の研究をなさっているのです。
先生が、「シジュウカラに注目したのは、東邦大理学部2年のころ」だそうで、「卒業研究のテーマを探すため、軽井沢の大学の山荘に籠もっていた時だった」のでした。
「群れの1羽が突如「ヒーヒー」と特徴的な鳴き声を出し、群れが一斉に飛び立った。
直後、上空に天敵のタカがきたが、群れは逃げ切れた。
これを見て「鳴き声を使い分けている」と確信し、実験を始めた」のだそうですが、
「だが証明は難しく、以来16年間、1年の6~8カ月を森の中で過ごしてきた」というのであります。
その結果、「シジュウカラ」が単語を使い、文法もあることを発見したのだそうであります。
新聞の記事では、
「動物と互いの言葉を理解して意思疎通できる可能性もあるのだろうか。
実はアフリカで例がある。」と興味深いことについて書かれています。
少し引用しますと、
「「ミツオシエ」という鳥は、人の所へやってきて「ギギギギ」と鳴き声を出し、蜂の巣の場所まで案内する。
途中で見失っても人が「ブルルル」と歌うと、戻ってきて案内を続ける。
見返りとして人から蜂の巣をもらうのだ。
人と動物も「共生」関係にあれば言語を通した意思疎通が可能で、他の動物たちは種が異なっても言葉を理解し合っている可能性もある。」
というのであります。
そんなことを考えると、アシジの聖フランシスコが、鳥と会話をしていたという話も、あながちあり得ないことではないと思います。
『アシジの聖フランシスコの小さき花』という本には、聖フランシスコが狼を説得している場面があります。
聖フランシスコが、グッビオという町にいたときのこと、一匹の大きく気の荒い狼が、飢えのために、家畜はおろか、人間までも襲って食い殺すということになってしまいました。
町の人達は、町の外に出掛けないようにしていたのですが、聖フランシスコは、この狼のもとへと出掛けてゆきました。
狼が聖フランシスコを襲おうと駆け寄ってくると、聖フランシスコは、
「わたしのもとに来なさい、兄弟狼よ。
キリストの御名において、わたしやほかの人にも悪さをしないように命じます」と言ったのでした。
すると狼は、頭を低くたれて聖フランシスコの足下にごろりと横になったのでした。
更に聖フランシスコは、町の人達の前で狼に向かって、
「それでは、兄弟狼よ、この後はどんな家畜や人間にも、害を加えないという契約を守ることを約束しますか」と、たずねました。
すると、この狼はひざを折って、頭を下げ、自分が約束した通り、その契約を守ることを誰にもはっきりとわかるように、体をゆすると同時に、その尾を振り、耳をぴくぴく動かしました。
そこで、聖フランシスコは重ねて、つぎのように言いました。
「兄弟狼よ、わたしどもが町の外で、あなたがわたしにこの誓約をしたように、ここにおられるみなさんの前で、あなたがこの誓約を守り、また、あなたの保証人であるわたしが保証していることを、決して裏切らないことをわたしに誓約してもらいたいのです」。
すると、居合わせる人たちの注目の中に、この狼はその右あしを上げると、誓約するように、聖フランシスコの手にそれをあずけました。
これを目にした大群衆の中から、おどろきと歓びのどよめきが上がりました。
それは、聖人への崇敬と、奇跡のすばらしさに加えて、狼と人びととの間に、仲直りの約束が成立したことからも生じたものでした。」
と書かれています。
聖フランシスコが「兄弟狼よ」と呼びかけているように、一匹の狼に兄弟と呼んでいるのであります
こんな話を読むと、狼よりも恐ろしいのはやはり人間だと思わざるを得ません。
春の鳥の声を聞きながら、平和の訪れることを願うばかりであります。
横田南嶺