死をどう受け止めるか?
題は、「仏心のひとしずく」です。
私をお招きいただいた内科の先生が、私の『仏心のひとしずく』という題の本を読んで、私に話をして欲しいという依頼でありました。
話の内容は、死生観についてであります。
まずはじめに、私がどうして仏門に入ったか、その動機について話をしました。
私の記憶の始まりは二歳の時にさかのぼります。
満二歳の時に祖父を肺癌で亡くしました。
そのとき初めて人の死を身近に体験しました。
今まで一緒に暮らしていた祖父が亡くなり、棺に遺体を納めて、火葬場に運んで、かまどに棺桶を入れて火をつけました。
かまどの蓋を閉じた時の音を今でも覚えています。
今のようにきれいな火葬場ではありませんでした。
煤けたかまどでありました。それだけに、遺体を焼くのだと実感したものでした。
火葬場から外に出ると、火葬場の煙突から白い煙が空に向かって上っているのが見えました。
母が私の手を引いて「おじいさんは、あの白い煙になって空に帰ってゆくのですよ」と教えてくれたのでした。
世に「三つ子の魂百まで」と申しますが、二歳の時の原体験から、私はいつも死を思うようになりました。
何をしていても、やがて死が訪れる、どんなに楽しいことをしていても、やがては死がすべてを奪うのだと考えていました。
更に小学生の時に同級生が白血病で亡くなるということがありました。
同じ年の死でありますから、人は死ぬものであり、そしてその死はいつ訪れるかわからないという切実な問題となりました。
今回の講演会にしても、私に講演を頼んでくださった先生は、この会を前にお亡くなりになってしまったのでした。
実に死はいつ訪れるかわからないと実感させられます。
そのように、死とは何か、人は死んでどこへ行くのか、死をどう受け止めて生きていけばいいのかということが、私にとっての大きな命題となっていったのでした。
学校で様々な知識を身に付けたとしても、やがて死を迎えるのですから、死に向けてもっと確かなことを学ばなければならないと思って、私は小学生の頃から、宗教や哲学を自分なりに学ぶようになりました。
様々な宗教の教えを学んだところ、ブッダの教えに最も心が惹かれました。
そして十歳の時にお寺で坐禅をして、その時にすぐれた禅僧のお姿に接して、ここに死の問題を解決する道があると思ったのでした。
それから坐禅をして今日に到るのであります。
人は誰しも死を逃れることはできません。
しかしながら、それにも拘わらず、人は皆、死を見つめようとはしていません。
できれば死を忘れて暮らしたいと思っています。
そうして日常から死を遠ざけて暮らしているように思われます。
実に死は、現代社会において忌み嫌われていると言うことができます。
なぜならば、一般に、死は「喪失」すなわち失うことだと思われているからです。
たしかに死によって私たちは健康な肉体を失います。
人生において与えられた時間も、社会における存在意義も、様々な体験も、手に入れたものすべて、貯めたお金や家財産など、家族、友人や恋人、地位名誉などを「喪失」してしまうものであります。
ブッダの言葉に
「わき目をふらず 華をつみ集むる かかる人をば 死はともない去る まこと 睡りにおちたる 村をおし漂す 暴流のごとく」というのがあります。
インドの地にあって、川が氾濫しては村を流してしまう情景を目の当たりにしていたのでしょう。
「華をつみ集める」とは、家族や財産や地位や名誉や様々なものを集めようとする私たち人生の営みそのものを表しています。
そして、その集めたもの、集めようとしている人までもすべてをおし流してしまうのが、死なのであります。
では、そのような死をどう受け止めたらいいのか、私はある僧侶の幼い頃の体験談を紹介しました。
その方は、小学三年の時、結核にかかり休学して病床に伏しでしまい、幼なごころにも「このまま死んでしまうのでは」という恐怖感があったそうです。
ある日暗闇の古井戸に落ちていく夢を見て悲鳴を上げて目を覚ましたといいます。
このとき住職を務めるその方のお父さんが優しく背中をさすりながらこんな風船の話をしてくれました。
「赤い風船が針で刺されて破れても心配はいらない。中の空気は外に出て行き、お空の空気と合流するだけ。いのちも同じで人は死んでも終わりにならない。大きないのちと合流しまた新しいいのちが生まれるのだ」と。
その方は「人が死に直面したとき、いのちとは何かを真剣に考える。死は肉体を滅ぼすがいのちは永遠ということに気づく人も多い。すると死の恐怖感から解放される」と語っていました。
円覚寺の朝比奈宗源老師は、幼い頃に両親を亡くして、死んだ両親がどこにいってしまったかと、死の問題に取り組んで坐禅されました。
そして長年の坐禅の修行を経てそれを解決されました。
次のようなやさしい譬え話で死を説いて下さっています。
「私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。
生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。
私どもは皆仏心の一滴である。
一滴の水を離れて大海はなく、幻の如きはかない命がそのまま永劫不滅の仏心の大生命である。
人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る。
生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心、仏心とは一秒時も離れていない」と。
そんな朝比奈老師の言葉を紹介して、仏心のひとしずくをおはなししたのでした。
お医者さんたちを前に話をするなど滅多にことでありますが、七年ほど前にも日本肺がん学会で死生観について話をし、更に世界肺がん学会でも話をさせてもらったことがあります。
近年では、諏訪中央病院でもお話させてもらっています。
死について考えて坐禅してきたことが、まさかこのようにお役に立つとは思いもしなかったものであります。
横田南嶺