気をつけるべきばかの話
「バカっぽく見える日本語に気を付けたい」というコラム記事があります。
そのなかに、
フランス文学の翻訳者で、受験小論文指導の達人・樋口裕一さんの『バカに見える日本語』(青春出版社)という本にふれて書かれています。
「タイトルの「バカに見える日本語」の真意は、その日本語がバカに見えるのではなく、「その日本語を使っているとバカっぽく見えますよ」という警鐘のようだ。
たとえば、「みんな言ってます」。こう言うと自分の主張が通りやすくなると思って使うことが多いという。
「『みんな』というあいまいな言い方ではなく、具体的にそれらの人たちの名前をあげるとか、根拠を示そう」と樋口さん。
それから「テレビで言ってたんだけど」。今なら「ネットで見たんだけど」だろう。
これは聞いた話に疑問を抱いたり、その言葉の真意を深めたりと、自分の頭で考えることをやめてしまった言葉だ。テレビもネットもそれほどのメディアではないということだろう。「テレビやネットの話を話題にするなら、本で検証してからにしよう」と樋口さんは言う。
「気がします」「思います」もビジネスの世界では要注意。「昨今の暖かさは地球温暖化の影響のような気がします」と言うのは、その人が何となくそう感じるだけ。「しっかりと科学的根拠を添えるべきだ」と言う。」
と、筆者の水谷もりひとさんは指摘されています。
こんな記事を読んでいて、お亡くなりになった前管長の足立大進老師のことを思い出しました。
なにか足立老師に申し上げるときに、「みんな言っています」というとたいへんに叱られたものでした。
「みんな」とは、どこのだれだというのです。
自分の意見に責任をもたずに、「みんな言っています」というのは卑怯だと仰せになっていました。
「思います」というのも、そんな言葉を使わずにはっきり自分の意見を言い切るようにと仰っていました。
足立老師の前では、口にしてはいけない禁句がいろいろあったので、何かお話申し上げるときには、とても気を使ったものです。
ほかにも「でも」「だって」「しかし」、これなども禁句でした。口答えをしないようにということでしょう。
それから「どうも」という言葉も禁句でありました。
禅の修行はばかになることだと、以前に書いたことがあります。
修行して目指すべきばかと、なってはならないばかとがあるので、気をつけないといけません。
樋口裕一さんの『バカに見える人の習慣』という本には、
「自分アピール」バカや人に聞かせるように独り言を言うバカ、自分の経験をドラマ仕立てにするバカ、自意識過剰バカ、不平不満バカ、過剰に反応するバカ、言い訳バカなどなどバカに見える習慣について書かれています。
こういうばかにはならないように気をつけないといけません。
「君子は盛徳あって、容貌愚なるがごとし」という言葉があります。
君子はすばらしい徳を備えていながら、その姿はまるで愚か者のようだというのです。
中身がないのに、見栄を張っているばかの振る舞いとは雲泥の違いがあります。
『荘子』のなかに興味深い話があります。
だいたいの意味を訳します。
陽子居という人が、老子にお目にかかろうとして沛の町に出かけた時の話です。
老子は連れ立って歩く道すがら、天を仰いでため息をつきながら陽子居に言いました。「これまで、わたしは君のことを教えがいのある人物と思っておったが、今見るとどうもいかんな。」 と。
陽子居はこう言われて一言もありませんでした。
陽子居は老子のために出来る限りのことを尽くしていたのです。
旅籠屋に着くと、陽子居は老子のために手洗いの盥にうがい水、手拭いに櫛を捧げ持って敬意を表しました。
それから履き物を部屋の外で脱ぎ、すり膝でにじり進んで老子の前に出、こうたずねました。「先ほど私、先生におうかがいしようと思ったのですが、道中おせわしいこととてご遠慮申し上げました。今はおくつろぎのようですので、何とぞ私の至らぬ点をお教えいただけませんでしょうか。」と。
老子は言いました、
「君はぎょろぎょろじろじろとあたりを睥睨しておるが、そんなことでは誰も付いてこないぞ。
真の潔白さはかえって垢黒のように見え、盛大な徳(道の働き)はかえって不足があるように見えるものなのだ。」
陽子居はこれを聞くと、ぐっと居住まいを正して、「お教え、敬んで承りました。」と言いました。
こうして陽子居は人間がすっかり変わってしまいました。
「彼が旅籠屋に着いた時には、泊まり客たちが総出で送り迎えし、亭主は座布団を手に、内儀は手拭いと櫛を運び、泊まり客たちは場所を空け、暖炉に当たる者は火の側を譲る、というありさまでしたが、彼が帰る時には、泊まり客たちが場所を空けるどころか、彼を押しのけて座布団を争うまでになった」という話です。
講談社発行の『荘子 全訳註合本』(池田知久訳註)を参考にさせていただきました。
ばかな振る舞いや、ばかな言葉遣いには十分気をつけながらも、自分自身を常によく見つめて老子や禅で説かれるばかを目指したいものです。
横田南嶺