ばかにならないばかの話
「老師は風邪をひきませんか」と問われて、「おかげさまでばかは風邪をひきませんので」と答えると、
たいへんに叱られたことがありました。
「ばかは弱い人なので、風邪もひくのです、ばかは風邪をひかないなどと言うべきではありません」とたしなめられました。
ばかという言葉自体があまり良い言葉ではありませんので、それ以来、ばかは風邪をひかないという言葉は使わないようにしています。
ばかという言葉も極力使わないようにしています。
私にそのように言って下さった方は、戦時下においても看護の仕事をなさってこられた方でありました。
朝比奈老師の熱心なご信者でもありました。
軽率な発言には気を付けなければならないと思ったことでした。
そんなわけで、「ばかは風邪をひかない」という言葉を封印してきたのですが、十一月九日の読売新聞の編集手帳に、
「風邪の俗言には「ばかは風邪を引かない」もある。
医学的根拠もあると何かに書いてあったのを思い出す。
頭を空にしてストレスを遠ざけるほど免疫力が……云々と。
ああ、もっと安心して空っぽになりたい」
と書かれているのを読んで驚いたのでした。
「冬至にカボチャを食べると風邪をひかない」という俗言について書かれていたものでした。
「カボチャには、カロテンにくわえてビタミンCやEを多く含み、感染症に対する抵抗力をつけてくれる。
俗言といっても、いいかげんではない」
と書かれています。
そんな俗言もコロナ禍にあっては、ワクチンや投薬の前では影が薄くなるというのです。
ようやくコロナの感染も収まってきて、「風邪をひかないようにカボチャを」ということも緊張を少しほどいて言えるようになったというのです。
そのカボチャのことに続いて、「ばかは風邪をひかない」ということについて言及されていたのでした。
そこで、さてそもそも「ばか」とはいったい何だろうかと考えました。
まずはなんといっても『広辞苑』を手がかりに調べてみようと思いました。
『広辞苑』で「ばか」を調べてみると、漢字は「馬鹿・莫迦」となっていて、
「梵語moha(慕何)、すなわち無知の意からか。古くは僧侶の隠語。「馬鹿」は当て字」と書かれていました。
もとはサンスクリットのモーハから来ていると書かれていたのでした。
そのあとに、
①おろかなこと。社会的常識に欠けていること。また、その人。愚。愚人。あほう。
②取るに足りないつまらないこと。無益なこと。また、とんでもないこと。
③役に立たないこと。
④馬鹿貝の略。
⑤(接頭辞的に)度はずれて、の意。
という解説がなされていました。
仏教が語源に関わっているとなると、岩波書店の『仏教辞典』を調べざるを得ません。
『仏教辞典』にも「ばか」を調べると
「語源ははっきりしないが、無知とか迷妄を意味するサンスクリット語mohaに相当する音写語かともされる。
このサンスクリット語の確かな音写語として<莫迦>がある。」
と書かれています。
「音写語かともされる」という表現ですので、確かな説ではないようです。
さらに『仏教辞典』には、
「また一説に、漢語<破家>(家産を破る意)の転義とも。
いずれにしても、愚かさを意味していることに変わりはない。
ただし、本来<年老いた>を意味するサンスクリット語のmahallakaを語源とする説は信用しがたい。
なお、古くは寺家の隠語的なものだったらしく、用例としては鎌倉時代末を溯るものが見当たらない。」
と書かれています。
「破家」という言葉から来ているという説もあるのです。
「破家」は禅語でも用います。
禅語として用いる時には、「破家散宅」として使われています。
「破家散宅」は、入矢義高先生の『禅語辞典』によれば
「身上をつぶす。無一物になる」という意味であります。
禅語としては「破家散宅」はよい意味で使われます。
煩悩妄想がすっかり抜け落ちて無一物の心境になったことを「破家散宅」というのです。
『禅学大辞典』には、「破家散宅」を「家宅(妄想)を破産する。大悟徹底のこと」と説明されています。
「破家」がばかのもとであるとすると、妄想を破って大悟徹底したことを表すことになります。
こうなると、ばかはばかにできません。
実際に禅の修行では、もっぱら「ばかになれ」と教えられます。
修行を始めた頃、老師に「ばかになるのが禅の教えならば、勉強しなくてもいいのですか」と聞いたことがあります。
そうすると、老師は、「なにも勉強しないのはただのばかだ、勉強した上で、更にばかになる修行をするのだ」と言われたのでした。
どういうことかよく分からなかったのですが、ばかが、「破家」がもとであり「破家散宅」妄想を破って大悟することであるならば、しっかり修行してばかになるというのは大事なことだとようやく気がつきました。
長いことをこんなことも分からずにいたというのは、なんと己はばかであったとようやく気がつきました。
しかしながら、お釈迦さまが、
「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。」
と仰せになっていますので、今さらながら己の愚かさに気づいただけ有り難いことであります。
ばかにならないばかの話であります。
横田南嶺