冷暖自知
『広辞苑』によると、
「[伝灯録(4)]水が冷たいか暖かいかは飲んで初めて分かるように、仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、体験して親しく知ることのできるものである意。」
と説明されています。
伝灯録(4)というのは、『景徳傳燈録』巻四にある蒙山道明禅師の章にあるということです。
入矢義高先生の『禅語辞典』には
「人の水を飲みて、冷暖自ら知るが如し」という言葉として、「人が水を飲んで冷たいか温かいかを体で知るように、直接的に体験する。また、その体験のように他人には伝えられない消息、という意にも用いる。」
と解説されています。
五祖法演禅師という方は、三十五歳で出家してはじめ唯識という仏教学を学んでいました。
あるときに「冷暖自知」という言葉に触れて大いに感じるところがあって、講師の先生に、「冷暖自知」ということはどういうことか質問しました。
講師の方は、冷暖自知ということを知りたいのならば、仏心宗を伝える者の処に行って教えを請うように指示しました。
そこで五祖法演禅師は、禅宗に参じることになりました。
はじめは雲門宗の円照宗本禅師について修行して、さらに臨済宗の浮山法遠禅師のところに行き、浮山禅師からは、自分はもう年老いたので、白雲守端禅師に参じるように指示されて、五祖法演禅師は白雲守端禅師のもとで修行をして大成されたのでした。
「冷暖自知」というひとつの言葉が、五祖法演禅師の生涯を大きく変えたのでした。
いくら唯識という仏教学を学んでいても、「冷暖自知」するところが無ければ何もならないと疑問に思ったのでしょう。
『景徳傳燈録』にある蒙山道明禅師という方は、達磨大師から五代目の祖師である五祖弘忍禅師のもとで修行していました。
五祖弘忍禅師と五祖法演禅師とは別人です。
五祖法演禅師は、もっと後の時代の方であります。
五祖弘忍禅師は七世紀の方、その五祖のいらっしゃった五祖山に住したのが法演禅師でこちらは、十一世紀の方であります。
五祖禅師のもとで修行していた時に、一人の青年が修行に来ました。
嶺南という南方から来た青年で、五祖禅師のもとで米つきの仕事をしていました。
まだ出家して正式に僧になったわけでもなかったのです。
五祖禅師のもとでは神秀禅師という方が、修行僧達の頭であって、皆は五祖禅師の法を嗣がれるのは、神秀禅師だと思っていたのですが、なんとまだ五祖禅師のところに来てから八ヶ月ほどしかいない、しかもまだ正式に僧にもなっていない、あの米つき小屋で米を搗いていた青年が、五祖禅師の法を嗣がれて南方へ行ったということを知りました。
法を伝えた証として、五祖禅師は、衣と鉢を授けたのでした。
道明禅師は、そんなことがあろうかと思って、数十人の仲間を率いてその青年を追いかけました。
とうとう大庾嶺というところで追いつきました。
その青年は道明禅師のやって来たのを見て衣鉢を石の上に置いて言いました。
「この衣は仏法の信を表してる、力で争うものではない、持って行きたいのなら持って行くがいい」と。
すると、道明禅師がその衣鉢を持ち上げようとしても山のように動かないのです。
そこで道明禅師は言いました。
「私は法を求めてきました。衣の為ではありません。どうか私の為に教えをお説き下さい。」と。
するとその青年は「不思善不思悪、正與麼の時、那箇か是れ明上座が本来の面目」といって、善も思わず、悪も思わないというまさにそのとき、どのようなのがあなたの本当の姿なのかと問いました。
この一問で道明禅師は長い間の迷いを破り悟りに達しました。
道明禅師は涙を流しながら礼拝して問いました。
「今お教えいただいた特別の教えのほかに何かさらに大事なものがありましょうか」と。
青年は答えました。
「今私があなたに示したのは、決して秘密の教えなどではありません。あなたが若しも自己の本来の面目に目覚めたならば、秘密などというものはあなた自身にあるものなのです」
そのときに道明禅師が
「某甲、黄梅に在って衆に随うと雖も、実に未だ自己の面目を省せず。今入処を指授することを蒙って、人の水を飲んで冷暖自知するが如し」と言ったのでした。
道明禅師は感激して言ったのです。
「私は長い間黄梅山にいて皆と共に修行していましたが、まだ自己本来の面目に目覚めていませんでした。
いまお示しをいただいて恰も人が水を呑んで冷暖自知するようにはっきり致しました。
今やあなた様は私のお師匠さまでございます」と申し上げました。
それに対して青年は、「あなたがそのように自ら気付かれたならば、あなたも私も同じく五祖禅師を師匠と致しましょう。五祖禅師の教えを大事に守っていってください」と言いました。
この青年が、六祖慧能禅師なのであります。
この言葉の通りに、道明禅師は五祖禅師のお弟子として伝灯録に載っています。
人の本性がいくら尊いものだと話に聞いているだけでは、本当に納得したとは言いがたいものです。
何かの縁に触れて、ああなるほどその通りだと全身で深く納得することが大切であります。
冷たいというのはどういうことは、温度が何度なのかいくら知っていても、自ら水に触れて冷たいと知ることが大事なのです。
そうかといって、あまり体験主義に偏ってしまうと、その体験を競い合ったり、体験しない人を蔑んだりして新たな差別を生んだりしてしまいます。
体験を大切にしながらも、しかもそれにもとらわれないことが必要であります。
紅葉がきれいだといくら知っていても、写真や映像で見ているよりも、実際にその場にいって、自分の眼で紅葉をながめて全身で感動する体験が尊いものであります。
温泉の成分や効能にいくら詳しくても実際に温泉に入らないと、凍えてしまします。
やはり全身で温泉につかって、身体の芯から温まることがないと何もなりません。
あの盤珪禅師は、仏心の尊いことを生涯かけて説いてくださいましたが、やはりこれも自分で「冷暖自知」しないといけないと思うのであります。
横田南嶺