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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.07.17
今日の言葉

いかなる罪も責むるなと

毎日新聞日曜くらぶに連載されている、心療内科医の海原純子先生のコラム記事、「新・心のサプリ」をいつも楽しみに拝読しています。

七月十一日日曜日の「新・心のサプリ」を拝読して驚きました。

冒頭には、

「鎌倉・円覚寺の、横田南嶺管長は、毎日新聞でも先ごろ紹介されたが、コロナ禍で寺の法話に参加できない方のためにユーチューブ配信をなさっている。」

と書かれていて、なんと有り難いことに私が紹介されているのでした。

私の管長日記などでは、定番のように海原先生の記事を紹介していますが、そのことがどなたかを通じて海原先生に伝わったようなのであります。

海原先生は、更に

「この配信が大変な人気で、私の友人の臨床心理士の女性も毎回欠かさず視聴している。禅のお話はコロナ禍を過ごす心のケアに役立つのである。」

と書いてくださっているのであります。

それほど人気とも思い難いのですが、有り難いことであります。

そして、海原先生は、そのあとに、続けて、

「実は、横田管長は、このコラムを以前から読んでくださっていて、そのご縁で私は医学の国際学会のシンポジウムに講演をお願いしたことがある。

医療の現場で目を向けるのは常に「生きる」ことであり、「死」については二の次にされがちだ。

しかし、必ず向き合わなくてはならない「死」について、避けて通ることはできない。

だから私自身も死と生を共に考えるようになった。」

と書いてくれています。

この学会に招かれた時のことは、六月二十四日の管長日記に書いたことでした。

「法話には死生観だけでなく日常のストレスを乗り切る上で役立つ内容が多くある。」と書いてくださっています。

そして、

「先日、横田管長の書かれた興味深い内容のエッセーが掲載されている機関紙をいただいた。

 それは、最古の仏典といわれる『スッタニパータ』の一節のお話だった。

 「人が生まれたときには、実に口の中に斧(おの)が生じている」

人の悪口を言ったり傷つける言葉を言ったり、そのことがまわりまわって自分を傷つけることになるということである。

それにしても、斧という言葉でドキッとする。

斧までいかなくても果物ナイフやカッターくらいの言葉の暴力は日常的に使ってしまうことが多いのではないだろうか? 

さらにこの一節を見聞きして、自分がどのように感じるかもまた心の指標の一つになるような気がする。」

と書かれています。

とある冊子に寄稿した仏陀の言葉に注目してくださったのでした。

そして海原先生は、この言葉を読んで、自分の言動はどうだったかを思い出す人と、自分ではなく、他人の言動を点検して、他人の問題を探そうとする人とがあると指摘されています。

そこで

「私たちは誰でも言葉を刃物にする傾向をもっているから、日々折々、気をつけようという気づきがあればいいのではないかと思う。

一番の問題は、人の言葉のあらばかり指摘して自分は問題がなく正しい、と思い込んでいる人だろう。」

と書かれています。

同じ言葉を読んでもどのように受け止めるかで、意味合いが全く違ってきます。

たとえば、「一日作さざれば一日食らわず」という言葉にしても、今日一日の勤めをなしていないと、今日の食事をいただくのは申し訳ないと自分自身に対して思うのと、ろくに働いていない者は、食べるなと他人に対して使うのとでは全く異なるのであります。

海原先生の記事を拝読して、私は坂村真民先生の詩を思い起こしました。

「とげ」という詩です。

刺さっていたのは 
虫メガネで見ねば 
わからないほどの 
とげであった 
そのとげをみながら思った 
わたしたちはもっともっと 
痛いとげを 
人の心に刺し込んだりしては 
いないだろうかと 
こんな小さいとげでも 
夜なかに目を覚ますほど痛いのに 
とれないとげのような言葉を 
口走ったりしなかったかと 
教師であったわたしは 
特にそのことが思われた(『坂村真民全詩集第三巻より』)

という詩であります。

いくら人を傷つけないように気をつけていても、知らぬうちに傷つけてしまっているのがお互いであります。

山本玄峰老師という九十六才まで長生きされた、昭和を代表する禅僧がいらっしゃいました。

最晩年におそばに仕えていた方からうかがったことがあります。

もう九十才を超えてから、夜寝る前に布団の前で正坐して、頻りに何かをつぶやきながら頭を何度も何度も下げていたというのです。

何をなさっているのかと思っていると。お詫びしていたというのです。

今日あの人に会って、こういう事を言ったが言葉が足らなかった、不愉快な思いをさせたのではないか、申し訳ないことをした、すまないことをしたとお詫びしていたというのです。

偉大なる方はこういうところが違うのだと思いました。

真民先生には、このような自らを戒める思いが強かったのだと思います。

くちなしの花を詠んだ詩がいくつか残されています。

 くちなしの花
いかなる罪も
責むるなと
くちなしの花
教うなり
すがしく薫る
白い花
疲れて帰り
そばに立つ

また、海を見てはこんな詩を残されています。

 光る海 
責めるな 
責めるな 
決して責めるな 
責める心が起きたら 
海を見にゆこう 
すべてを受け容れ 
光り輝く海を

夏になりました。

海を見るときには、こんな心も思い起こしたいものです。

 
横田南嶺

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