今ここにある命
是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
一茶の代表的な句であります。
この一句について、山尾三省さんは、実に深い読み込みをなさっていて感銘を受けています。
山尾さんは、屋久島に住んでおられました。
そこで、屋久島を例にとって、屋久島は中生代の白亜紀が終わる六千五百万年前頃までは海底であったということから説明されています。
六千五百万年などというと、地球の四十六億年からみれば短いのかもしれませんが、自分たちにとっては、ほぼ悠久というか永遠に近いものであります。
海底であった岩盤に地殻の移動によって亀裂が生じて、そこへ地殻のさらに底からの花崗岩質マグマの突き上げが起こって、隆起が始まり、およそ千四百万年前頃に今の島の形ができあがったというのであります。
山尾さんは、その花崗岩の岩に上るのだそうです。
その時に、次のように感じるというのです。
『カミを詠んだ一茶の俳句 希望としてのアニミズム』から引用させていただきます。
「ぼくは時々そこへ行って、坐禅をして般若心経を唱えたり、お念仏を唱えたりもするのだが、そのカミなる場から与えられるものは、まさしくぼくという生命はその場の一部であり、その六千五百万年、一千四百万年の時間の一部であるという感覚であり、そこに自分がどうしようもなく深く遠く屈しているという自覚である。
その自覚は、個我から発した基本的人権思想などよりはるかに深い、基本的生命感覚とも呼ぶべきもので、ぼく一個の個我を名実ともに放棄し得た時に初めて与えられる性質の充足感と解放感である。」
というのです。
そのあとに、沢木興道老師の逸話を記されています。
「このことに関して思い起こされるのは、沢木興道という禅僧が語っているエピソードである。
沢木興道老師は、近現代の日本を代表する真に禅僧らしい禅僧の一人であるが、若い時分には丘宗潭というこれまた伝説的な逸話の数々を持つ師家について、禅を学んでいた。
宗潭の禅堂で若き日の興道が坐禅をしていると、襖ひとつ隔てた宗潭の自室へある人が独参にやってきた。
独参というのは、師家に直接一人で参じて仏道を問うことである。その人が、型どおりに三度の礼拝の儀を済ませて宗潭に向き合うと、宗潭が早速に言った。
「うむ、何か」
「どうぞ私のために一大事をお示し願います」
それを眼鏡越しにジロッと睨んで、
「誰の一大事じゃ」
「へえー、私のでございます」
ふすま
「うむ、貴様のか。貴様一人くらい、どうでもええじゃないか、ハッハッハッハハ」
宗潭のその笑い方が、次の間で聞いていた興道にとっては、実に奇体な、根性の悪い笑い方に聞こえ、まるで軍鶏が雛を蹴っているようで、義憤を感じるほどに憎ったらしかったというのである。
けれども、後になって興道師自身の身に非常に辛い、耐え難いようなことが起こると、必ずその時のことが思い起こされ、
「うむ、貴様一人くらい、どうでもええじゃないか、ハッハッ
という、根性の悪いその宗潭師の声が耳に蘇ってきたというのである。」
という話です。
よく知られた逸話なのです。
私のかつて取りあげたことがあります。
この話を取りあげて、山尾さんは、
「少し横道に外れたが、「貴様一人くらい、どうでもええじゃないか」、という宗潭師の意地の悪い声は、ぼく一人の命などはどうでもよいということではむろんない。」
と指摘されています。
その通りで、そんな軽い言葉ではありません。
山尾さんは、
「その正反対で、ぼく一人の命、すなわち一大事をしっかりと摑むためには、その命が無限の時間と空間の連鎖の内にそのひとつの結び目として現われ出たものであり、そこに深いがうえにも深く支えられて在るよりほかはないものであることを、知るほかはないことを、それは意味しているのである。」
と指摘されていて、まさしくこのことが大切なのです。
更に山尾さんは、
「ぼくの生命は千四百万年、あるいは六千五百万年というような時間を持つこの島の地理及び歴史に所属しており、四十六億年の時空である太陽系地球に所属しており、さらには百五十億年の時空である銀河系にまぎれもなく所属しているという事実の内にぼくは在るのであって、その事実をこそ、人間の故郷性存在と呼ぶのである。」
というのです。
仏教で、「劫」という長い時間の単位を説明することがあります。
劫というのは、磐石劫(ばんじゃくこう)という説明があって、それは、四方と高さが一由旬(ゆじゅん)の鉄城があり、その中に芥子を充満し、百年に一度、一粒の芥子を持ち去って、すべての芥子がなくなったとしても、まだ劫は終わっていないという。これを芥子劫というのです。
由旬というのは、一説に約七キロメートルで、牛に車をつけて一日ひかせる行程を意味します。
それがだいたい四十三億二千万年に相当するというのです。
なぜこんな長い時間のことを詮索するのか不思議に思っていましたが、ある時に、この劫というのは、お互いの命の長さを表すのだと教わって、納得ができました。
一劫の四十三億年と、地球ができあがったという四十六億年とが近い数字なのにも興味を覚えます。
私の命が、今ここにあるということは、地球が出来て以来、数え切れない事象が営々と積み重なって出来た結晶なのです。
山尾さんは、
「ここで注意しておかなくてはならないことは、ぼく達はいかにも銀河系に属し、太陽系に属し、地球に属しているのだが、最も日常的かつ身近なリアリティとしては、ぼく達は自分のその居住または旅している地域、暮らしている場、仕事をしているその場所にこそ、具体的な生身の人間として属しているというもうひとつの事実についてである。」
というのであります。
そんな思いがこもっての
是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
というのであります。
一句をここまで深く読み込まれるのに頭が下がります。
学びを新たにしています。
横田南嶺