蚊蠅の如き僧一人
もう蚊が出始めています。
修行時代に、老師から、「古来蚊と雪は禅門の徒」といって、夏の蚊、冬の雪は修行の仲間だと教わったものです。
蚊に刺されたくらいで動くなと、坐禅中に厳しく指導をいただいたおかげで、長年修行道場にいて、蚊に刺されても全くなんともなくなってしまいました。
長年修行道場にいて、何も身につきませんでしたが、強いて身についたと言えば、蚊に刺されても平気になったことくらいだと思っています。
山尾三省さんに『カミを詠んだ一茶の俳句 希望としてのアニミズム』という本があって、読んでいました。
山尾三省さんの深い洞察に感銘を受けているのですが、改めて一茶という人物に心惹かれています。
寛政四年、一茶三十歳の春に、薙髪して
剃捨てて花見の真似やひのき笠
という句を残しています。
山尾さんは、
「頭髪を剃り落として、僧形となって、先達の芭蕉に倣い(花見の真似や)、以後七年間にわたる関西、四国、九州までもの大修行の旅に出る一茶は、箱根の関所に到って、
通し給へ蚊蠅の如き僧一人
と、悲しくも高らかに詠み、生涯を芭蕉の如くに俳諧に捧げ、旅に過ごし、旅で終える覚悟であった。
俳諧の道とは、芭蕉にとってそうであったように、一茶にとっても真実を求めるもうひとつの出家だったのであり、それゆえにこそ、蚊蠅の如き僧一人と、通し給えと、切なくも高らかに詠みきることができたのである」
蚊や蠅のような僧一人ですから、どうぞ関所を通してくださいという、なんとも言えぬ味わいがあります。
そんな句を味わって坐禅していると、自分もまた
禅堂に蚊蠅の如き僧一人
と、坐っている思いがします。
なあに人間偉そうなことを言っても所詮は蚊蠅の如き一人だと思えば楽しいものであります。
一茶らしい感性に心惹かれています。
雪とけて村いっぱいの子ども哉
という句は、曽て円覚寺のカレンダーにも使わせてもらったことがあります。
いい句であります。
我と来て遊ぶや親のない雀
は代表句のひとつとされるものです。
山尾さんは、「一茶研究者の多くは、一茶の俳諧精神のひとつに〈童心〉という光りが宿されていたことを指摘する」と書かれています。
古郷(ふるさと)や佛の顔のかたつぶり
という句があります。
実に仏教の大切な心を詠っています。
山尾さんは、「この句には、味わってお分かりのとおり大小二つのカミが深く詠みこまれてある。
大なるカミはむろん、「古郷や」と詠みあげられた信州信濃の大地性そのものであり、小なるカミは、その大地性の片隅の片隅の片隅を這う、一匹のかたつむりである。一茶はそのかたつむりに「佛の顔」を見たのである」
と解説されています。
大いなるカミ、佛の命が、大地の片隅に這っているかたつむりに現れているというのです。
花の陰あかの他人はなかりけり
という句はよく知られています。
山尾さんはこの句を
「芭蕉の
さまざまの事思ひだす桜哉
と並んで、江戸時代を代表する桜の句と言ってよいほどの絶唱であろう」と
評しています。
あかの他人はなかりけり、仏教の縁起の世界観を思わせます。
一茶数え年六十一歳、還暦を迎えた新年の句はよく知られています。
春立つや愚の上に又愚にかへる
また、こんな句があって、ハッとします。
涼しさにミダ同躰のあぐら哉
涼しさの中、阿弥陀さまと一体になってどっかりあぐらをかいているというところでしょうか。
『おらが春』には
「おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払いの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑屋はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。」
という一文があります。
私たちは俗世間の塵にまみれて世渡りする境界にもかかわらず、鶴亀になぞらえた祝い尽くしも、厄払いの口上めいてわざとらしく思うので、からっ風が吹けば飛ぶようなあばら屋は、あばら屋のあるべきように、門松も立てずすす払いもせず、雪の山道のように曲ったまま、今年の春も阿弥陀様任せにして迎えたという意味です。
目出度さもちう位也おらが春
『おらが春』には、真宗の念仏について一茶の見識が示されているところがあります。
おおよその意味をざっと意訳しますと、
他力信心、他力信心と、一向に他力に力を入れて頼みこむ連中は、結局他力の縄に縛られて、自力地獄の炎の中へぼたんと落ちてしまう。
では、どのように心得れば、真宗のご本旨にかないましょうか。
答えて言います、別に小難しい理屈はありません。
ただ自力他力、何だかんだというごみくずを、さらりと遠い海に流してしまって、さて後生の一大事は、その身を如来の御前に投げ出して、地獄であっても極楽であっても、あなた様のお考え次第、どのようにでもしてくださいませと、お頼み申し上げるだけです。
というのであります。
そうした時は、無理に声に出して念仏を唱える必要もなく、願わずとも仏はお守りくださるでしょうというのです。
これがすなわち、真宗の安心の境地ということだというのであります。
こういう深い信心を持っていたと思うと
ともかくもあなた任せのとしの暮
という五十七歳で詠んだ句が一層深く味わえます。
蚊蠅の如き僧一人もミダと一体、阿弥陀さまにすっかりお任せの心境です。
そして、蚊蠅の如き僧は、同じ蚊蠅の如き小さき存在に慈悲の眼を注いでいるのです。
こんな句がいいなと思いました。
とべよ蚤同じ事なら蓮の上
横田南嶺