人生の一大事
二十四日の余録は、
「子に先立たれるほど、心の痛むこともないだろう。」
という一文から始まっていました。
娘を亡くしたという、東京都中央区の会社員、粟美香(あわ・みか)さん(56)の話が書かれています。
娘さんは、幼いころから歌が好きだったそうで、残念ながら24歳で心不全で突然旅立ってしまいました。
「粟さんの元には、娘の作った数百の曲、10枚ほどのCD、歌っている映像が残された」そうです。
しばらくは、音楽を聴く気にもなれなかったそうなのですが、
「新型コロナウイルスの流行がやまない」この今、
「愛する者を亡くし、他者との交流を制限され、多くの人が心身に傷を負っている」と思った粟さんは、娘さんの曲で人を勇気づけたいと思われました。
そして個人でインターネットラジオの番組枠を買ったという話なのであります。
月に1回、粟さんがパーソナリティーとなって娘の曲を紹介するのだという話が書いていました。
余録は「伝えたいメッセージは、「ひとりじゃない」。コロナの流行下、人はそれぞれの場所で、誰かの役に立とうとしている」
という一文で結ばれていました。
実は、その日の前の晩から、わが子を亡くした西田幾多郎のことを書こうと思っていたので、朝の余録を読んで、感慨を新たにしたのでした。
日本講演新聞の五月十七日号の社説は、「幸も不幸も抱き合わせてかな人生」という題でありました。
社説の筆者である水谷もりひとさんが、西田幾多郎記念哲学館を訪ねたことが書かれています。
少し引用させていただきますと、
「「哲学館」に入ると、こんなナレーションが流れた。
「哲学とは、『知ることを愛する』ということです。
それは情報を増やすことではありません。
自ら迷い、考えること。
すぐに分かる必要はありません。
行くべき道を歩きながら考え、時には立ち止まり、時には来た道を戻る…」
哲学に少し親しみを感じた。「知るとは情報を増やすことではない」ということ、「すぐに分からなくていい」ということに…。」
という文章から始まっています。
これが私も全くの同感なのです。
西田幾多郎の哲学というと、難しくて歯が立たないと思い込んでいました。
それが数年前に、西田幾多郎記念哲学館で講演を頼まれて、哲学館を訪れた時に私は今までの考えを改めたのでした。
入ってすぐに、
「哲学の動機は「驚き」ではなくして、深い人生の悲哀でなければならない」
という一文があって、感動したのでした。
人生の悲哀、西田幾多郎にとっては、十三歳で体験する姉の死をはじめに、弟の戦死、そして五人の子供の死でありました。
水谷さんも社説で、
「大正4年(1915年)、45歳の幾多郎が発表した『思索と体験』というエッセイ集に、奇妙なタイトルの文章があった。『「国文学史講話」の序』である。何が奇妙かと言うと、国文学史とは全く関係のない内容だったからだ。それは「わが子の死」についてのエッセイだった。どういうことか。
『国文学史講話』という本は、その7年前、明治41年(1908年)に、当時東大助教授だった藤岡作太郎という学者が発表したものだった。
作太郎と幾多郎は旧制中学からの親友で、作太郎は本の発刊にあたり、幾多郎に「序」への寄稿をお願いしたのだ。
作太郎はその本を「亡きわが子へ捧げる記念の書」とした。実はその2年前、彼は幼い女児を病気で亡くしていた。
ところがその1年後、今度は幾多郎の6歳の次女が病死した。『国文学史講話』の「序」にはそのことが綴られていた。」
というのです。
わが子を亡くし悲しみにくれる友人の書物の序文に、その悲しみを察して我が悲しみを赤裸裸に綴られたのでした。
こういう気持ちを「同悲」と申します。
悲しみをともにするのであります。
「「昨年、君の子の死を知り、力を尽して君を慰めた。しかるに今年の一月、私の次女が死した。私は君に手紙を送った。私の心を分かってくれる人は、君の外にないと思ったからだ。今度は君から慰められる身となった」というようなことが冒頭に綴られていた。」
と社説には書かれています。
「また「長く生きたから幸せなのか、早く死したのは不幸なのか。何らの人生の罪悪にも汚れず、悲哀をも知らず、ただ喜戯(きぎ)して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美しい感じがする」とも。」
というのであります。
『「国文学史講話」の序』は、『西田幾多郎随筆集』(岩波文庫)にも「わが子の死」と題して掲載されています。
いくつかの心に残る文章を紹介します。
「とにかく余は今度我子の果敢なき死ということによりて、多大の教訓を得た。」
「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。」
という一文には心打たれます。
単にわが子の死を悲しむということから、更に、この死の問題と正面から哲学者が取り組もうとされているのです。
「夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、いかにも断腸の思いがする。
しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり、いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。
永久なる時の上から考えて見れば、何だか滑稽にも見える。
生れて何らの発展もなさず、何らの記憶も遺さず、死んだとて悲んでくれる人だにないと思えば、哀れといえばまことに哀れである。
しかしいかなる英雄も赤子も死に対しては何らの意味も有たない、神の前にて凡て同一の霊魂である。」
という切なる思いです。
そして、
「たとえ多くの人に記憶せられ、惜まれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う。」
という情愛の深さに涙が滲みます。
人の死に接すると、痛切に自分もやがてこのように死を迎えると考えるものです。
死を切実に感じてこそ、今このいのちをどう生きるか真剣に考えざるを得なくなります。
死の問題は、人生の一大事なのです。
送り火や今に我等もあの通り(一茶)
横田南嶺