弱さを授かる
村上和雄先生をテーマにした映画『祈りーサムシンググレートとの対話』をご覧になって
『大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった。
より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
より良きことが出来るようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しもうとして あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 命を授かった
求めたものはひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意に沿わぬものであるにもかかわらず
口に出さなかった祈りはすべて応えられた
私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ』
という詩が朗読されていたというので、教えて下さったのでした。
私も以前何かで読んだ記憶があったのですが、改めてしみじみと読んでみました。
こういう詩を読むと、素直に信仰に生きることの素晴らしさ、尊さを思います。
神を素直に信仰しているからこそ、出てくることばでありましょう。
どうも、禅の修行は、強さを求めるところがあると思います。
足の痛いのに長時間ジッと我慢して耐える。
何年も何年も根気よく修行を続ける。
難しい漢文の禅語録を読む。
などは、やはり弱い気持ちでは出来がたいものです。
そうして修行してゆくと、何か特別強くなったような思いがするものです。
特段強くなったと実感しなくても、心のどこかには、強くなったという思いがあるように感じます。
以前、何の本で読んだかも全く覚えていないのですが、こんな言葉をメモ帳に書き写しているのです。
剣の修行
十年で己の強さに気づく
二十年で相手の強さに気づく
三十年で己の弱さに気づく
四十年で何が何だか訳がわからなくなる
誰の言葉なのか、どこに出典があるのかも分かりません。
ただ自分の帳面に書き写しているだけなのです。
書き写した時にも感銘を受けたからメモに残したのだと思います。
坐禅の修行なども、十年も僧堂にいると、自分が強くなったように感じてしまいます。
少々自慢の心が起きてしまいます。
これが一番危険な時であります。
剣の修行にしても、十年道場に通って、強くなったぞという気持ちになっているときが、一番危ないでしょう。
誰彼となく、相手にして勝負したくなる時です。
自分の力を試し、自分の力を示したくなる時でもあります。
こういう時に命を落としかねません。
更に十年修行すると相手の強さが分かってくるというのです。
こうなると、慎重になります。
滅多なことで勝負しようなどと思わなくなります。
更に修行して、自分の弱さを知るようになると、負けないようになると思います。
この弱さを知るまで修行するのがたいへんなことですが、大事なことでありましょう。
もう十年前になりますが、東日本大震災から二月後の五月に、被災地の寺院のお見舞いに出かけことがあります
ある寺院のお見舞いに行って、裏の墓地を拝見しました。
あらゆる墓石はみな倒れています。
そんななかでよく見ていると、倒れていない石塔もありました。
ある一列の墓はすべて倒壊しているのに、その中で一基二基倒れていないのがあったのです。
不思議に思って眺めていたら、そのお寺の和尚さんがわたくしに「この倒れていない墓を作った石屋さんは、すべて同じ石屋さんなのです」と教えてくれました。
そしてその石屋さんとは長年ずーっとこのお寺に出入りしている石屋さんだそうです。
なぜその石屋さんのお墓だけは倒れなかったのかというと、それは長年出入りしてその土地の地盤をよく知っていたからだというのです。
お墓の裏側に池がありました。
池や沼の周りは地盤が弱いのです。
この石屋さんは地盤の弱さをよく知っていて、その上で慎重に基礎を作って建てていますというのでした。
仕事というものは恐ろしいものだとその時つくづく思いました。
何でもないときに形よく建てることは簡単ですが、こういういざというときに仕事の違いがあらわれます。
地盤の弱さを知っているからこそ、慎重に建てたのだと思いました。
お釈迦様は無常であることをよく見つめよとお教え下さいました。
無常とははかなく、もろいものです。
弱いものです。
人間は生老病死、生まれ年老い病になり、やがて死を迎えるはかないものです。
この弱さをしることの大切さを改めて思ったのでした。
坐禪の修行によって、決して強くなることを学ぶのが目的ではありません。
坂村真民先生の詩に、
弱いままに
信仰によって
強くなるのではない
弱いままに
助けられ
守られてゆく
その喜びのなかに生きる
それが本当の信仰である
というのがございます。
お互いの身体にしても同じでしょう。
弱いと思って養生して生きる方が健康で長生きされたりします。
大丈夫だろうと養生を怠ると病に侵されたりします。
病気なんてしたことがないという人が、意外に早く亡くなることもあるのが世の中であります。
逆に病気がちで気を付けながら、長生きされることもございます。
また病気をした人の方が、親切さや優しさがあるということもございます。
強くなることは、自我を増長することになりかねません。
自我が増長すると、ますます対立が深くなり、自他一如からは離れてゆきます。
弱さ、もろさ、はかなさを知って謙虚にいることが大事でしょう。
修行や坐禅をするには、気をつけないとならないと思います。
弱さを授かるという思いを大切にしたいものです。
横田南嶺