坐禅の目的
心を落ち着かせたいとか、精神を鍛えたいとかさまざまあることでしょう。
いずれにせよ、この現実の生活のなかでは、うまくゆかないものがあって、何かを禅に求めるのだと思います。
あの鈴木大拙先生などは、現実のこの世の中が不公平であることに憤りを感じておられました。
まわりの者たちは、何不自由なく学校に通っているというのに、自分は父親が早くに亡くなったことから、満足に学校に通うこともできないという不公平です。
そこで、不公平を突き破りたいと思い、理屈ではどうにもならないものがあると感じて、「分別理性を超越した何か」があると思って、それを明らかにしようとして禅の道に志しました。
この現実の世界に閉塞感を抱いて、何か超越したものを求めたいという思いも強いのではないかと思います。
そこまで求めずとも、まず自分の心を少し落ち着かせたいという方も多いでしょう。
川尻宝岑居士の『坐禅の捷径』には、
「まず、坐禅というものは、精神を静めるためにするものじゃ、というところへ心のむいている人がある。
もっとも儒道にも静坐ということがあって、精神を治めるためにするのであるから、精神を治めるということは悪いことではないけれども、禅門の坐禅というものはそれしきに限るものではないのである。」
と書かれています。
精神を静めること自体が悪いことではありません。
宝岑居士が、「それしきに限ることではない」というように、それだけに留まるものではないのです。
「ただ精神を鎮めるの一方向きになっていると、坐禅の時わずかに妄念が治まるとモウそれがよいのじゃと思う。
この思うものが妄識じゃからして、いつまで立ってもこの妄識を破ることは出来ぬ。ただ折々妄念の静かになるだけのことじゃ。」
というのです。
心が静かに落ち着いたなと思うのも、妄想のひとつなのです。
宝岑居士は、おもしろい譬えをなされています。
「ちょうど終日借金取りに責められているものが、夜になって暫時かけとりがとぎれたようなもの。
その時だけは楽になったようじゃが、また翌日になると責めて来る。
そのとぎれた間チョイチョイ息をつくのと同じことで、一生涯正真の楽を得ることは出来ぬ。」
というのであります。
少し心が落ち着いたくらいのことでは、また何かあると心は騒いでしまいます。
心が騒ぎっぱなしであるよりは、よいと思いますが、根本的な解決にはなりません。
では、何を目指すのかというと、
「真正の目的はどこへ立てるじゃという と、目的を立てないのが真の目的で、少しも向うへ目的をつけず自己に取ってかえして公案三味に入る。
これが真の目的というもの。この外に少しでも向うへ目的があったらみんな邪魔ものじゃ。」
と宝岑居士が説かれています。
「目的を立てないのが、真の目的」というのは、実に禅らしい表現であります。
向こう側に目的を立てないのです。
外に向かって目標を立てて、それを達成しようというものではありません。
どこまでも自己自身のことです。
常に「自己に取ってかえす」のです。
「公案三昧に入る」というのは、今与えられている課題に集中するのです。
宝岑居士は、坐禅をする者がはじめに与えられる問題である、趙州和尚の無字を例にされています。
ただひたすら無の一字に集中するのです。
雑念妄想が起こっても、すぐに「無」の一字に取ってかえすのです。
マインドフルネスで、雑念が起きても、すぐにそのことに気がついて、呼吸に帰るというのと同じ要領です。
何かになろうとか、外に目的を持つではなく、只今ここに坐っている自分自身になりきることです。
ここにこうして坐っていることのみに集中して外に求めないのです。
そうすると、必ず本来持って生まれている智慧が、正しくはたらいて、今自分がどうすればいいのか、どういう方向に向かえばいいのか、自然と明らかになってくると説くのであります。
まずは、大円鏡智といって、鏡のような智慧が生じます。
これも造作するのではなく、本来具わっているはたらきが顕わになるのです。
鏡のなかにはなにものもありませんので、あらゆるものを映し出すことができます。
ありのままに見ることができるようになると、差別無く平等に見ることができるようになります。それが平等性智です。
そうしますと、それぞれの状態がよく観察できるようになります。
これが妙観察智です。
よく観察できるようになって、はじめて今具体的にどう動いたらよいかが、分かってきます。
それが成所作智と申します。
そして、その具体的な行動は、必ず慈悲となって現れてまいります。
私たちが坐禅するのは、仏道を実践していることにほかなりません。
仏道は仏になる道であります。
仏になるとは、仏心を自覚し、仏心を顕わにして、仏心をはたらかせてゆくことです。
仏心は、大慈悲心なのです。
究極目指すところは、お互いが慈悲の存在になることであります。
横田南嶺