悟ってみれば
この本を書いた川尻宝岑という方は、石門心学も修めて更に円覚寺の今北洪川老師に参禅して、臨済禅の修行も仕上げられた居士です。
鈴木大拙先生は、今北洪川老師の最晩年に参じたに過ぎないのですが、洪川老師が円覚寺にお入りになった頃から、熱心に通って参禅して公案をすべて透過されたほどの方なのであります。
天保十三年一八四二年のお生まれであります。
洪川老師よりは、二十六歳お若い方であり、釈宗演老師よりは十七歳年上でいらっしゃいます。
この本が刊行されたのが、明治三十七年ですので、日露戦争の最中であります。
今修行道場では、マインドフルネスも学び、藤田一照さんの身体技法など、最先端の教えも学んでいるのですが、オーソドックスな、古典のような、明治時代の頃に説かれた坐禅も学んでおこうと思っているのであります。
はじめに、宝岑居士は
「近来、禅ということが一種の流行物のようになって、学者無学者を問わず、男女老幼を撰ばず、官員・書生・商人・職人・誰れ彼れなしに、多く坐禅をする人ができてきたのは まことにありがたいことで、悦ばしく思うのである。
しかして、その坐禅する人たちの中で素志を遂る者は至って少なく、中途でやめてしまう人が多い。」
と書かれています。
日露戦争の前頃に、禅がはやっていたようなのであります。
これは円覚寺の今北洪川老師の影響が大きかったと思います。
宝岑居士は、禅を志すからには、悟りを求めねばならないと説かれていて、更にその悟りについて書かれたところがあります。
こういう事が書かれているというのは、やはり当時の方は、坐禅をすると悟りが開けて、素晴らしい世界が現れると思っていたのでしょう。
そんな思いを打ち砕くかのように、宝岑居士は、
「さてまた、この悟りということは、一種 特別なものがあって、悟りを開けば別段変わったものにでもなるように思っている人もあるが、けっしてそういうわけのものではない。
悟ったからというて身から光明も放さず、肉色が金色にもならず、何にも変わったことはない。
実は悟って見ると、悟りらしいものは何にもありはせぬのじや。」
と言っておいて、
「悟りとは悟らぬ前の悟りにて悟りて見れば悟りけもなし」
という和歌を示しておられます。
昨日一遍上人のことをお話しました。
一遍上人は、神戸の宝満寺におられた法灯国師(心地覚心)に参禅されたという話です。
はじめに一遍上人はご自身の心境を、
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」という歌をもって示されました。
法灯国師はその歌をご覧になって「未徹在」、まだ十分ではないと言われました。
更に工夫を重ねて、一遍上人は
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」という歌を示されたところ、法灯国師は一遍上人をお認めになったという話であります。
これは『一遍上人語録』に出ている話であります。
実はこれ、参禅した側の法灯国師の年譜にもこの話が出てくるのであります。
しかし、最後の和歌が異なっています。
法灯国師から、「南無阿弥陀仏の声ばかりして」というはじめの和歌ではまだ駄目だと言われて、更に一遍上人は修行を積まれて、作って示した和歌が
「棄てはてて 身はなき物と 思いしに
寒さきぬれば 風ぞ身にしむ」
というのであります。
この和歌をご覧になって、法灯国師はお認めになったというように、『法灯国師年譜』には書かれています。
もっとも、後世の者が作った話でありましょうが、禅の立場からみると、この「寒さきぬれば」の和歌の方がよろしいかと思うのであります。
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」という、なむあみだぶつ一枚に成りきったところが尊いことは言うまでもありません。
そういう心境になることが大切であります。
しかし、そんな心境に留まっていてはいけないので、やはり、寒い冬がくると、すきま風が身にしみるというところが実に有り難いのであります。
宝岑居士は
「やっぱり本の凡夫に変わりはない、それでは一向つまらぬもの、このつまらぬものが悟りじゃ、悟りに悟りがあるのではない」
と書かれています。
いくら修行しても、水瓶から火が出ることはないと、私の師匠小池心叟老師はよく仰っていました。
「犬が西向きゃ尾は東、雨の降る日は天氣が惡い。
兄貴わしより年が上、隣りの婆さん赤の他人」などとも言っていました。
「棄てはてて 身はなき物と 思いしに
寒さきぬれば 風ぞ身にしむ」
そういう寒さが身にしみるので、人には寒い思いをさせないように、温かくしてあげようという慈悲の心も生まれてくるものです。
横田南嶺