仏もわれもなかりけり – 一遍上人 –
西澤館長が、昨年一遍会で講演された講演録が掲載されています。
坂村真民先生の詩を紹介しながら、一遍上人のことを分かりやすく語っておられます。
坂村真民先生は、毎月個人詩誌『詩国』を発刊し、千二百名もの方々に無償で送り続けられていました。
毎月の詩を作るだけでも大変でしょうが、できあがった『詩国』を封筒に入れて、宛名を書き、封をして切手を貼って投函するという作業をお一人でなさっていたのでした。
毎月千二百もの宛名を書くなど、想像しただけでもたいへんなことだと思います。
これはひとえに、真民先生が、一遍上人の志を受け継ぐと約束されたからなのです。
西澤館長の講演録には、真民先生の「約束」という題の詩が紹介されています。
約束
わたしは一遍上人と
約束をした
あなたは南無阿弥陀仏
決定往生六十万人と書いた
賦算札を配って
日本全国を歩いたが
わたしにはそんなことはできないし
しても今の世の人々は
喜び受け取ってくれそうもないので
詩誌「詩国」を発行して
あなたの御遺志を継(つ)いでゆこう
そう思い
あなたの御誕生地にある
宝厳寺にお参りをし
あなたの足に手を触れ
あなたとの命の交流を乞い
新しい出発を始めた
ああこの聖なる約束を果すため
一年でも一日でも長く生きてゆこう
西澤館長の解説によると、
「この詩は、真民が七二歳の時の詩です。昭和五六年十一月に、「一遍上人語録 捨て果てて」が大蔵出版社から出版されたのを機に、二二年前の、一遍上人との「約束」を、もう一度再確認するため、この詩を書いたのです。」
ということです。
この昭和五十六年に、私も真民先生から、『一遍上人語録 捨て果てて』を送っていただいたのでした。
私は、まだ高校生でしたが、この時から一遍上人のことを学ぶようになったのでした。
私が一遍上人に親しみを覚える点は二つあります。
一つは、一遍上人は私のふるさとである熊野権現様に参籠して念仏の教えについて啓示を受けられたことです。
そしてもう一つが、私が参禅をしていた和歌山県由良町の興国寺を開山された法灯国師に参禅をされたことの二つであります。
一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配られました。
これを「賦算」と申します。
そんなお念仏のお札を配って遊行していて、熊野で出会った一人の僧に念仏札を受けるように勧めたときに、自分は信心が起こらないので受け取れないと拒否されました。
そこで一遍上人は熊野本宮に参籠して、熊野権現の啓示を受けられました。
熊野権現様が示されたのは、
「念仏を勧める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。
南無阿弥陀仏ととなえることによってすべての人々が極楽浄土に往生することは、阿弥陀仏が十劫という遠い昔、正しいさとりを得たときに決定しているのである。
信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、人を選ぶことなくその札を配るべきである。」というものでした。
この「信不信をえらばず」というのが、一遍上人の念仏の教えなのです。
法灯国師に参禅されたというのは次のような話です。
一遍上人は、神戸の宝満寺におられた法灯国師(心地覚心)に参禅されました。
その折りに法灯国師は、「念起即覚」という問題を与えられました。
念が起こったならば、速やかに目覚めよという教えであります。
その問題に対して、一遍上人は、最初
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」という歌を示されました。
法灯国師はその歌をご覧になって「未徹在」と仰せになりました。まだ十分ではないということです。
更に工夫を重ねて、一遍上人は
「となふれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」
という歌を示されたところ、法灯国師は一遍上人をお認めになったというのであります。
真民先生は、『一遍上人語録 捨て果てて』の中で、次のように解説されています。
「つまり声ばかりしての歌は未徹底であり、南無阿弥陀仏なむあみだ仏の歌は、徹底していて合格だというのである。
たしかに「ばかりして」という言葉は、歌ことばとしても良くない。
夾雑物が感じられ、澄んでいない。
……おそらく一遍上人のどこかに、まだ無我無念になりきっていないものがあったであろう。そこを未徹在と言って突き放したのである。」
というのです。
「声ばかりして」の歌では、まだ念仏している自分と阿弥陀様との間に隔たりがあると感じられます。
後者の歌は、南無阿弥陀仏一枚になりきっているのです。
更に『一遍上人語録 捨て果てて』の中には、実に興味深いことが書かれています。
「となふれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ
この歌を見ると、いつも思い出す。
それはある年のこと、あの朝比奈宗源老師がいられた鎌倉の円覚寺を訪ねた時、門のところにこの歌を大きく書いて掲げてあった。
まあ禅寺に一遍上人の歌がと思いながらも、そこが禅のいいところだと、しばらく足をとどめてなつかしく眺めていた。」
というのです。
これは、おそらく、昭和四十五年の夏のことであろうと思います。
昔から禅では南無阿弥陀仏であろうと、なんであろうと、それが真理を詠っていれば宗派の違いなど気にしないところがあるのです。
仏教を学び、禅に参じて、更に一遍上人の心を受けついで詩を作られた真民先生には、禅の教えも一遍上人のお念仏もひとつのものになっていたと思われます。
令和元年の十月に、不思議なご縁で、神戸にある禅寺で、この一遍上人の歌をしるした歌碑が建立されて、その除幕式と講演会に招かれたのでした。
そのお寺というのが、法灯国師と一遍上人とが問答されたお寺、宝満寺さまなのです。
この一遍上人の歌は、後世の作という説もあるようですが、『一遍上人語録』にも記載されていますので、一遍上人が法灯国師に参禅した折に作られたものとして受けとめています。
宝満寺の和尚は、南禅寺派の布教師としてもご活躍の方であり、私もよく共に研修をさせていただいて、数年前にも法話にお伺いしたご縁もあって、歌碑の字を私が揮毫させていただき、その記念講演を勤めさせてもらったのでした。
真民先生から『一遍上人語録 捨て果てて』を送っていただいたのがご縁のはじまりで、それから三十八年の後に実ったご縁なのでした。
その宝満寺の講演には、西澤館長ご夫妻にもお越しいただいたことを有り難く思い起こしました。
法灯国師、一遍上人、坂村真民先生、道後の宝厳寺様、神戸の宝満寺様、西澤孝一館長ご夫妻と、重々無尽に連なるご縁、めぐりあいの不思議に、驚き感謝して手を合わせます。
そんなめぐりあいの不思議の中に、今の私が生かされているのだと感じます。
最後に、真民先生が五十歳の時、初めて道後の宝厳寺を訪ねて、一遍上人像と対面しその姿に感銘を受けて作られた詩を紹介しておきます。
一遍智真
捨て果てて
捨て果てて
ただひたすら六字の名号を
火のように吐いて
一処不住の
捨身一途の
彼の狂気が
わたしをひきつける
六十万人決定往生の
発願に燃えながら
踊り歩いた
あの稜々たる旅姿が
いまのわたしをかりたてる
芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが
一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに
夜明けの雲のようにわたしを魅了する
痩手合掌
破衣跣の彼の姿に
わたしは頭をさげて
ひれ伏す
横田南嶺