仏さまの願い
六年前にもこのラジオ番組に出させていただいたことがあります。
今回は、円覚寺で収録しましたが、六年前の時には、渋谷にあるNHKのスタジオで収録しました。
その折りに金光寿郎さんにお目にかかりました。
金光さんは、実に五十年以上に亘って、NHKテレビの「こころの時代」やラジオ「宗教の時間」を担当していたディレクターでした。
ラジオ収録の後、金光さんに色んな話をうかがったことを思い起こします。
なにせ半世紀以上、宗教番組を担当して、何百人もの僧侶や宗教者に接して話を聞いて来られた方です。
その時に私は、「金光さんは今まで実に多くの宗教家に出逢って、一番これはという印象に強く残っている方はどなたですか」と聞きました。
これは実に難しい質問です。
私は、しばらくお考えになるかなと思ったのですが、金光さんは即答されました。
金光さんは即座に「それは大拙です。鈴木大拙先生は、やはり違いました」と仰いました。
私が、更に大拙先生のどこが違ったのですかと聞きますと、こんな話をしてくれました。
大拙先生は禅のみならず、念仏にも造詣が深くて、大谷大学にもお勤めされていたこともあって、親鸞上人の『教行信証』の英訳も手がけていらっしゃいました。
当時、まだ若き岡村美穂子さんがおそばにお仕えしていて、あるとき大拙先生に、
「阿弥陀様の本願というのがどうしても分からない」と訴えました。
本願とは、阿弥陀さまが、念仏称える者は、誰でも皆救おうという願いのことです。
大拙先生はその時お鬚を剃っていて即答できなかったようです。
しばらくして岡村さんが台所で朝餉の支度をしていると、奥の部屋から「美穂子さん」と呼ぶ声がしました。
岡村さんが駆けつけると、大拙先生は窓の外を指さしました。
そして一言「美穂子さん、本願が上ってきた」と。
窓の外を見ると朝日が上って来ていたそうです。
こういう答えは、単なる文献学者にはできません。
仏教の本質を体得し、空、無相、無我であることを実証し、阿弥陀様即ち永遠のいのちを坐禅して深く悟り得ていればこそ出てきた答えであります。
以前、小欄で、二つの世界について書いたことがあります。
大拙先生の『仏教の大意』を引用して書いたのでした。
「二つの世界の一つは、それで、 分別と差別でできているのです。
これは合理性で支配されます。 今一つの世界は無分別と無差別の世界です。 前者を感性的(あるいは知性的)世界、後者を霊性的世界と申します。
われらの生活は差別の世界で営まれて、われらはこれを真実の世界だと思いこんでいます。
そうして霊性的世界はこの知性的分別の背後に存在するもので、 われらは感覚のはたらきが強力なので、 これを看取することができないと考えています。
しかし真実のところは、この差別または分別の世界は、無分別・無差別の世界で、徹底して穿貫せられているのです(分別も差別も同じことであるから、どちらかをいえば、他は自らその中に含まれる。
そうして差別の世界が本当の意義を持って来るのは無差別の光明に照破されるときなのです。
これが会得されるとき宗教的生活が始まるのです。」
という文章であります。
これを受けて私は以下のように書いたのでした。
知性的世界というのは、分別し差別する世界です。
分別し差別すると、かならずそこから比べるということが起こり、比べては競争が生じます。
勝ち負けの世界であります。
勝つ者は傲り、敗れた者は憎しみを抱くのであります。
この世界にいるだけでは、苦しみの連鎖を断ち切ることはできません。
そこでもう一つの世界があると自覚することが大切になってきます。
それは無分別であり無差別の世界です。
般若心経でいう「空」の世界であります。
仏教語でいう「真如」の世界であります。
すべてが全く平等につながりあい、一体となって溶け合っている世界であります。
比べることもないので、憎悪もありません。
常に安らかで、穏やかで慈愛に満ちあふれた世界なのです。
霊性的世界と大拙先生は表現されていますが、大いなるいのちの世界であります。
私たち個別の存在を生かさせてくださっている大いなる世界であります。
目には見えません、知覚でとらえることもできません。
しかし、この空気のように、お互いのこの差別の世界にも満ちあふれているのです。
ところが、大拙先生のご指摘のように、私たちは「感覚のはたらきが強力」なので、普段気がつかないのです。
そこで、この感覚、知覚のはたらきをやめるのが必要であります。
目指すところは、大拙先生の説かれる霊性の世界、空の世界、大いなる神仏の世界を自覚しておくことが一番の安らぎになるのです。
それには坐禅は、一番よろしいと思いますし、大拙先生も坐禅をして体得されたのでした。
私たちが平生頼りにしている知覚分別の世界をすべてなげうって、大いなるものに触れることが肝要なのです。
お念仏でも同じなのです。
阿弥陀如来の大慈悲は、全く平等にして無差別のお慈悲なのであります。
大拙先生が、まだお若かった岡村美穂子さんに、阿弥陀さまの本願とは問われて、上る朝日を指したのも、同じことなのです。
朝日は、全く差別をせずにすべてを平等に照らしわたるのであります。
そのように仏さまの願いも平等にすべてを包むのであります。
現実の世界は、差別にあふれています。
コロナ禍によって、差別、憎悪はますます強くなっているように感じます。
それならばこそ、今坐禅して無分別の世界に触れるか、お日様を仰いで弥陀の本願のように平等に照らしてくださるものに手を合わせることが大切なのであります。
先日鈴木大拙の書物を学んでいる方々の集まりで、そんなことを話をさせてもらいました。
この分別と差別の世界だけを真実だと思っていると行き詰まります。
その中に、無分別と平等の世界が裏打ちされていることに目覚めることが大切なのです。
そんな無分別の世界など、どこにあるのかと思われるかもしれません。
幻想なのではないかと思うかもしれません。
しかし、この分別の世界の方が、まさしく分別によって作り上げられた幻想の世界なのです。
無分別と平等の世界こそが、私たちの本当のふるさとであり、安住できるところなのです。
この無分別と平等の世界を自覚して、そのうえで、もう一度この現実の世界の上で、慈悲を行じてゆくのが禅の道なのであります。
横田南嶺