二つの世界
私たちには、二つの世界があるというのです。
それはどういうことかというと
「二つの世界の一つは、それで、分別と差別でできているのです。
これは合理性で支配されます。
今一つの世界は無分別と無差別の世界です。
前者を感性的(あるいは知性的)世界、後者を霊性的世界と申します。
われらの生活は差別の世界で営まれて、われらはこれを真実の世界だと思いこんでいます。
そうして霊性的世界はこの知性的分別の背後に存在するもので、
われらは感覚のはたらきが強力なので、 これを看取することができないと考えています。
しかし真実のところは、この差別または分別の世界は、無分別・無差別の世界で、徹底して穿貫せられているのです。」
というのです。
知性的世界というのは、分別し差別する世界です。
分別し差別すると、かならずそこから比べるということが起こり、比べては競争が生じます。
勝ち負けの世界であります。
勝つ者は傲り、敗れた者は憎しみを抱くのであります。
この世界にいるだけでは、苦しみの連鎖を断ち切ることはできません。
そこでもう一つの世界があると自覚することが大切になってきます。
それは無分別であり無差別の世界です。
般若心経でいう「空」の世界であります。
仏教語でいう「真如」の世界であります。
すべてが全く平等につながりあい、一体となって溶け合っている世界であります。
比べることもないので、憎悪もありません。
常に安らかで、穏やかで慈愛に満ちあふれた世界なのです。
霊性的世界と大拙先生は表現されていますが、大いなるいのちの世界であります。
私たち個別の存在を生かしめてくださっている大いなる世界であります。
目には見えません、知覚でとらえることもできません。
しかし、この空気のようにお互いのこの差別の世界にも満ちあふれているのです。
ところが、大拙先生のご指摘のように、私たちは「感覚のはたらきが強力」なので、普段気がつかないのです。
そこで、この感覚、知覚のはたらきをやめるのが坐禅であります。
今の時期にも様々な行事、催しもの、人と人との集まりが出来なくなっていて、かわりにオンラインでいう取り組みがなされています。
それは結構でありますが、オンラインに頼ると、これもまた電気がなければどうにもならなくなります。
ですから、究極は大拙先生の説かれる霊性の世界、空の世界、大いなる神仏の世界を自覚しておくことが一番の安らぎにほかなりません。
坐禅は、一番よろしいと思います。
しかし坐禅にしても、下手をすると何が分かったとか、知覚の世界、分別の世界にとらわれてしまうこともあります。
どれだけ坐ったのだという競争の世界になってしまうこともあります。
旧参は偉くて新参は駄目だというのは分別の世界を作ってしまいがちであります。
私たちは平生頼りにしている知覚分別の世界をすべてなげうつことが肝要なのです。
そこで、無条件にすべてを放って一心に祈るこということは、最も近道であると思います。
一瞬に大いなる神仏の世界、空の世界に通じることができるのです。
そこにこそ、真の休らいがございます。
横田南嶺