祈り
竹村先生は、大乗仏教に関して実に造詣が深く、ご自身もまた深く坐禅もなされている先生であります。
長らく筑波大学の教授をなされていて、その後東洋大学に移られ、学長をお勤めになっておられました。
私が筑波大学に居た頃は、竹村先生はまだいらっしゃいませんでした。
私がお世話になったのは三枝充悳先生で、竹村先生は三枝先生の後任で筑波にお見えになったのでした。
私自身、竹村先生のご講演を拝聴したこともあり、著書はたくさん読ませていただいて、常日頃からご尊敬申し上げています。
本来なら今年の円覚寺の夏期講座で講師をお勤めいただくことになっていたのでした。
対談は、鈴木大拙先生の生誕百五十年の企画で、大拙先生について語りあいました。
対談では、大拙先生の「即非の論理」や「超個の個」、華厳の「事事無礙」の世界観など多岐にわたりました。
最後に今の世に大拙先生の思想で必要とされるものは何か語り合いました。
未曾有の時代とも言われます。これからどう生きたらいいのか。
個別の世界だけにとらわれていては、比較と競争になってしまいます。
震災の後には、つながりや絆を求めてきましたが、このたびの新型コロナウィルスによって、つながること集まることも難しくなっています。
そこでオンラインを用いたりして努力しているのですが、オンラインも停電にもなれば何もなりません。
「個」である私たちは、「個」を超えた「超個」に触れて目覚めることによって「超個の個」として生きることこそ重要であり、
そのために、「個」を超えたもの、おおいなるもの、私たちを無条件に生かしてくれている大きな力に目覚めることしかないと考えていました。
そして、究極の目覚めは「祈り」になるのではと考えていました。
いみじくも竹村先生の、今の時代に必要なのは「祈り」だと仰せになり、『仏教の大意』に祈りについての言及があると教えてくださいました。
早速寺に戻って『仏教の大意』を繙いて調べると、次の言葉がございました。
「自分の周囲に打ちひろげられる日々の惨憺たる光景を見せつけられたり聞かされたりすると、何としてもじっとしてはいられないのが人間である。
それは彼らの自業自得だといってすましていられない。それかといって、自分の力では何とも仕方がない、人間の力だけでは手の出しようもない。
この時に心の底から涌いて出るのが祈りである。」
というのです。
まさしく「祈り」だと思いました。
私もたびたび述べてきましたが、今日においては情報がたくさん有り過ぎることによって、「祈り」の心は薄らいでいます。
しかし「祈り」こそは、どんなに離れていても、心が通じ合えるものであります。
そして私たちを生かしてくれている大いなる世界につながることができるものであります。
「個」を超えた大いなる「超個」と一体化することのできる、もっとも近道であり確かなる道であると語り合うことができたのでした。
充実した思いに満たされて円覚寺に帰ることができました。
横田南嶺