施餓鬼とは?
一般には、お盆の時期のご先祖のご供養の法要と思われています。
確かに施餓鬼は特別な法要と思われますが、実は修行道場では毎日行っています。
どういうことかというと、食事のたびに、ご飯を数粒取って、餓鬼に施すのです。
餓鬼に施すとはいっても、実際には屋根などにまいて、鳥などに食べてもらっています。
昔は、満足に食べられない人が多くいました。
また、飢えて亡くなる人もいました。
餓鬼となってさまよう御霊もあると考えました。
そんな中で自分たちが食べられることに感謝し、餓鬼にも施したのです。
今の時代でも、世界を見渡すと飢えている人も多いのです。日本でも同じであります。
自分だけのことを思うのではなく、そんなことを思いやって食事を静かにいただくのが施餓鬼の心なのです。
施餓鬼は中国に於いても行われていました。
そんな伝統が日本にも伝わったのでした。
特に戦乱の時代などには、満足に供養もされない死者も大勢いたのでした。
そんな時に、禅僧が施餓鬼を行って、供養をしたのでした。
亡き御霊に供養をするのに、私たちが「施餓鬼」を行って功徳を積んで、その功徳をご回向するのであります。
僧侶も一人だけではなく、多くの僧を招いて、供養したのでした。
夢窓国師なども、戦乱に時代に施餓鬼を行って、多くの御霊を供養されています。
お盆の時期に行われるのが多いのは、お盆というのは、お釈迦様の時代から行われてきた安居の修行が終わる時であり、僧侶たちが十分に修行を積んだ時でありました。
安居の修行というのは、もともとはインドにおいて雨期には、外を出歩くと虫などを踏んで殺してしまう恐れがあるので、一カ所に集まって修行に専念したのでした。
その安居の終わる時が、七月の十五日なのでした。
これを一月送らせると八月十五日になります。
そんな時に、多くの餓鬼に施しをする儀式を行って更に功徳を積んで、その積んだ功徳を亡くなった方にご供養するのであります。
鎌倉などでは、八月に施餓鬼法要が行われることが多いのですが、都内では五月に行われることもございます。
私が、学生時代に出家し、今も兼務住職を務めている白山の龍雲院においても、近年は五月九日に行ってきました。
これはまだ、先代の小池心叟老師がご存命の頃、都内の夏の暑さが尋常ではなくなってきて、ある年の七月のお施餓鬼法要で、熱中症で倒れる方が出てしまい、それ以来五月に行うようにしています。
龍雲院の施餓鬼には、毎年古今亭志ん橋師匠が落語を演じてくださいます。
実は、先代の小池心叟老師は、志ん橋師匠がまだ若手の頃に、お寺を寄席として使わせてあげていたのでした。
今からもう十六年前に、私が兼務住職を務めるようになってからも、毎年施餓鬼にお越しいただいて、落語を一席演じてくださっていました。
そうしますと、私はお招きする主催者でありますので、控え室でお話をさせてもらっていました。
ところが、当時の私は落語というものについて全く知識がなく、控え室で話をする話題がすぐに無くなってしまうのでした。
主催する側が落語について何も知らないようでは、先方も気が乗らないのだろうと思いました。
私も、講演に行って、先方の主催者が私のことも、禅のことも全く知らないようですと、話をする気力が減退してしまいます。
そこで、何も知らないでは申し訳ないと思って、少しずつ勉強したのでした。
そうして、毎回の落語が終わると、師匠に今日の演目は何というのですかと聞いたりして勉強しました。
そうこうするうちに段々と私も詳しくなってきまして、落語と法話と全く別物で行っているのがもったいないように思うようになりました。
ここ数年は、こちらから落語の演目を指定しておいて、その落語の内容を受けて、私が法話を作っておこなうという、いわば落語と法話の「コラボ」を行うようになっていました。
そうすると、師匠もご自分の落語のあと、その内容を私がどんな法話にするかご関心があるのか、残って法話も聞いてくださるようになりました。
こちらから、理解しようと努めることが大切であります。
毎年そんなことを楽しみにしていたのですが、コロナ禍にあって龍雲院では、昨年は施餓鬼も開催できず、師匠にもお目にかかれずにいました。
今年こそはと思っていたものの、感染症の拡大は、収まる気配がなく、今年も落語も法話もできず、お参りの方に集まっていただくこともかなわず、副住職たちと施餓鬼の読経だけ行って、塔婆供養をしたのでした。
「今年も中止」というのはよく聞く言葉ですが、気が滅入ります。
円覚寺の僧堂でも毎年五月十五日に、施餓鬼法要を行って、いつもお世話になっている信者さんたちのご先祖のご供養を行ってきました。
こちらはさすがに落語はありません。私の法話と施餓鬼の法要であります。
やはり、こちらもご多分にもれず「今年も中止」であります。
来年こそは、多くの皆さまにお参りいただいて、施餓鬼法要を勤めさせてもらいたいものであります。
皆が集まる法要はできないものの、この施餓鬼の心は大切にしたいものであります。
横田南嶺