学びて習う
はじめに、奘堂さんは最近ご自身の使命に目覚められたことを話してくださいました。
その使命を表した言葉が、
「神さま仏さまが私たちの身中に鎮座され、私たちは常にその光と恵みを全身に受けています。
この身を神仏の身と思い定めて大切に愛し敬い常に腰を立て起こして正身端座しましょう。」
というものであります。
素晴らしく崇高な使命感であります。
まずこの言葉に感動しました。
奘堂さんは、東京大学で哲学を学び、更に京都大学の大学院で心理学を専攻され、その後出家されて、京都の僧堂で修行し、今は大阪のお寺の住職をなさっています。
住職をなさっているとはいえ、所謂お檀家の無いお寺だそうで、文字通り坐禅一すじに生きておられるのであります。
奘堂さんの問題意識とはどのようなものであったかについて、藤田一照さんの『現代坐禅講義』の中で、一照さんと次のように語り合っておられます。
一照さんが、
「奘堂さんの基本的な問題意識というのは「釈尊が菩提樹の下で行なったのはどのような坐禅だったのか?」というところにあるようですね。
実はわたしもそれがずっと念頭にあって、これまで参究を続けてきたものですから、思いがけず同志を見つけた気がしてすごくうれしくなりました。」
と語られて、それに対して奘堂さんが、
「はい、そうなんです。
ですが、釈尊のした坐禅がどのようなものだったのか、本当のところは誰にもわからないものだと思います。
ですので、それをアレコレと詮索するよりも、人間の原点に立ち返って探究していくのが良いと思うようになってきました。
「人間が坐る」とはどのようなことなのか、という探究の過程で、釈尊自身も何か特別のことをやろうと努力したのではなくて、たとえば呼吸にしても特別な呼吸法を実践したというよりも、人間本来の、平常そのものの呼吸を本当に探究し、実践し続けたのではないかと思うようになってきました。」
と答えられています。
更に奘堂さんは、京都の僧堂で修行なさったのですが、そこで大きな疑問を抱かれるようになりました。
それはどういうものかというと、
「そのころのわたしはいわば「気をつけ!」の姿勢みたいな坐禅をしていました。
「背筋を伸ばす」ということを強く意識して、お臍の裏側あたりを前へ押し出すような感じで、腰がグッと反るような姿勢、それが「腰を入れる」ことだと思って、五年ほどやりました。
そうやっていると、腰がシャキっとした感じがしますし、いかにも「自分は頑張って坐っているぞ」という気持ちがして、それなりの充実感も感じるわけです。
しかし、そういう坐り方で一日十何時間、それを一週間もやり続けると、当然のことですが、肩は凝るし息も浅くなってくるわけです。
これはやっぱりおかしいんじゃないか、長くやると肩が凝ったり呼吸が浅くなるような坐り方というのはどこかがおかしい、こういうのが、最初のころにしていた坐禅で起こってきたからだの違和感ですね。
それから「おれは頑張っているんだ!」と、不自然なこと、不必要なことを無理をして頑張っていて、そこに充実感を感じるというのも、やっぱりおかしいんじゃないか、と思えてきたのです。
ちなみにこれは、わたしだけの問題でなく、たいていの坐禅の初心者はそういう坐り方をするんですね。
つまり、腰の後ろをぐっと前の方へ突き出し、腰を反らせて肩をいからせて、いわゆる「気をつけ」の姿勢のような坐禅。
こういうやり方でも週に一回一時間くらいの程度なら、からだに問題は起きないでしょうけど、それを長時間、頻繁にやると、からだに無理が出てきます。
そういうふうにからだに無理をかけるような仕方で、がむしゃらに頑張るのは本当の坐禅ではないのではないか、と思うようになったんです。」
というのであります。
これなども私ももっともだと共感するのであります。
私などは、ただひたすら自分の体力と気力に任せて、そのように「気張って」修行し続けてきました。
私が問題を感じるようになってきたのは、五十歳に手の届くようになった頃からでした。
やはり体力的な衰えは隠すことができなくなってきたのでした。
これからの坐禅はどのようにしたらいいのか、模索していました。
あの道元禅師にしても、五十三歳でお亡くなりになっているのですから、それ以後のことは参考になりません。
そうこうしているうちに、藤田一照さんや奘堂さんとご縁ができて、私自身が更に深く坐禅を探求するようになってきたのでした。
奘堂さんは、『現代坐禅講義』のなかで、このようにも語っておられます。
「わたし自身が、最初のころは、そのような無理のある坐禅を指導していたのです。
それこそ、臍の裏側あたりを手でドンと突いたり、警策といわれる長い棒を後ろからぐっと押しつけて、「もっと腰を入れろ!」と教えたりしていました。
そうすると確かに猫背気味の人の背中がまっすぐになったりしますし、腰に緊張感みたいなものを感じますから、指導を受けている方も、「これが正しい坐禅の充実感だ」と思うので、確かに効果はあるように見える訳なんです。
ですが、それは実は錯覚というと言いすぎかもしれませんが、本当にいいことなんだろうか、正しい坐禅というのはそれとはまた別のことじゃないのかという疑問を持つようになっていったんです。」
というもので、そこから奘堂さんの探求が始まるのです。
それに対して、一照さんは、
「その問題点を一言でいうと、意識で余計な造作をしている、意識ではからって「これこそが坐禅だ」という勝手な基準に合わせてからだやこころをコントロールしようとしている、そういうことになりますか?」と問われ、
奘堂さんは、
「はい、ここまで述べてきた坐禅は、無自覚的に「これが正しい方向だ」と思い込んでいるようなあり方の枠内で頑張って、実際はからだに無理がかかり、肩が凝ったり、息が浅くなったりする。その無理を極端に長時間続けるとからだをこわしてしまいます。」
と答えています。
そこで、奘堂さんは、ギリシャの彫刻に眼を着けられました。
フィディアスの彫刻に大いに啓発されたのでした。
今回は、さらにスフィンクスの像を用いて、本来の腰の立ち方を学びました。
私も一照さんに学び、奘堂さんにも学んで、随分と坐禅が新たになり、深まりました。
僧堂の修行僧たちも、よく学んでくれています。
私などは、無理な力づくの坐禅を長年やってきて、ようやくこの頃本当に腰が立つとはどういうことか、無理のない坐禅を学ぶことできるようになりましたが、若い修行僧たちに、私のような回り道をせずに、まっすぐに正しい坐禅を身につけてほしいと願っています。
本当に正しい坐禅は、身体が悲鳴をあげるようなものでは決してなく、身体が喜び、常に腰を立てていたくなり、坐りたくなるようなものであります。
奘堂さんの講義には、なんとお忙しい一照さんも駆けつけてくだって、お互いに学び合うことができました。
孔子の言葉をしみじみと思いました。
「学びて時にこれを習う、またたのしからずや」
学ぶことは無窮であります。
学ぶことによって、新しい自己に出会えます。
これが楽しく喜びなのであります。
横田南嶺