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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.05.11
今日の言葉

姿と勢い

先日藤田一照さんにお越しいただいて、坐禅の講義を実習を行っていただきました。もう何度もお運びいただいて、親切なご指導をいただいています。

私も、自分自身一から坐禅を教わるのだという思いで、修行僧たちと共に学ばさせていただいています。

学ぶと、毎回新たな気づきがあるものです。

今回も、冒頭で一照さんが、坐禅というのは、

「有限なるものが無限なるものに触れている、祈りや礼拝に近い行為」であると仰って、私はもうこの一言に心打たれました。

この言葉を聞いただけで、今日という日を生きた価値があると思ったほどでした。

私たちが修行している独参や参禅は、礼拝行であると小欄に書いたこともありました。

まさしく坐禅は、祈りであり、礼拝行だと思っているのであります。

ここまで明確に言葉に表現していただいて感銘を受けました。

まさしく、この言葉にあるように、「無限なるものに触れる」行為なのです。

この無限なるものを。「知ろう」とするのは、無理であり、また傲慢であります。

まして、況んや「無限なるもの」を悟ったというのは、同じであります。

我々は、この有限を有限であると知るのです。

有限であることを知るのは、ただ無限なるものに触れるからであります。

呼吸の営みも、この身体がこうして坐っていることも、実に私の有限なる認識には収まらない、実に無限の営みなのであります。

内山興正老師のお言葉、

「坐禅とは、骨組みと筋肉で正しい坐相をねらい、あとはすべてそれに任せること」というのも、この「無限なるものに触れる」という自覚からみると、より一層深く味わえます。

それから、今回学びましたのは、「姿勢」についてです。

「姿勢」というと、私たちは、この姿形のことだと思ってしまいます。

しかし、字をよく見ると、「姿と勢い」で「姿勢」なのであります。

一照さんは、「姿勢は姿と勢いであって、単なる形ではない、勢いが無いのに形だけつくろうとすると形骸化になってしまう」と説かれました。

目に見えない心が目に見える形として表現されたのが「姿勢」であるというのです。

そこで、一照さんは、林竹二先生の『学ぶこと変わること』という本にある写真を示してくださいました。

この内容については、一照さんのご著書『現代只管打坐講義』に書かれていますので、そちらから引用させていただきます。

林先生の本というのは、「かつて宮城教育大学の学長であった林竹二先生が神戸の長田区にある定時制の湊川高校で行った授業の様子を小野成視氏がカメラに収めたものである。」というものです。

良い言葉ではありませんが、「落ちこぼれた子」たちが集まっているのだそうです。

「このなかに、わたしにとって非常に印象に残っている写真がある」と一照さんは書かれています。

「一九七七年二月に行われた「人間について」という最初の授業の時のある生徒の写真」だそうで、それは

「一番前の席でほおづえをついて上半身を机にあずけて「こいつ何をする気やねん?」という顔つきで林先生をぼんやり見あげている生徒」の写真です。

これを実際に拝見させてもらいました。

その少年は、「いつも授業中は不断のおしゃべりと不規則な行動(五分から十五分間隔で授業から抜け出す)で教師たちを翻弄しているという」のだそうです。

それから「そしてもう一枚の写真。それは五月の「開国」の授業の時のかれの姿を撮ったものである。

このとき、かれの背筋はしゃんと伸びて腰が立ち、「先生と二時間まともに向き合っていた」と記されている。

同じ人間の対照的な姿勢=態度の写真が見開きで掲載されている」

というので、この写真も拝見しました。

そして一照さんが言われるのは、

「わたしが問題にしたいのは、この青年の姿勢の変化が、誰かにそうするように言われたからではなく、先生の言っていることをちゃんと聞こう、しっかり受けとめたい、深く学びたいという本人自身の内なる促しによって自発的に起きた自然な変化だったということだ。」

ということなのです。

さらに、「普通なら、こういう姿勢の悪い生徒(=授業態度の悪い生徒)がいると、先生は「おいお前、背筋をぴんと伸ばせ! もっとしゃんとしろ! 態度が悪いぞ」と叱って、無理やり直させるだろう。

しかし、こういう他律的な強制・矯正は一時しのぎでしかないことは火を見るより明らかであろう。

先生が見ていなければすぐまた元にもどってしまう。

何よりそんなやりかたはこの湊川の生徒たちには通用しない」というのです。

そして林先生の言葉が記されています。それは、

「まるごと変わるーそれはふかいところで何かが解きはなたれて、一つの持続する自己運動がはじまることで、外から加わる力で変わってゆくのではない。

自分の中から次々と新しい自分を生み出して変わっていくのだ」というのであります。

私たちの禅堂の修行は、どうしても強制的に坐らせるものであります。

無理に我慢して坐らせます。

もちろんのこと、ある程度の規律や強制もなくてはならないと思いますが、強すぎては、身につかないのです。

この身につかないということを私も長年実感してきました。

如何に、内側から、坐ろう、坐ってみようと思いがあふれて、姿勢に現れるように導くかが大切であります。

一照さんに教えてもらって、修行僧たちの姿勢をよくしてもらおうなどと考えては勘違いも甚だしいのです。

一照さんの親切で熱意あふれるご指導に触れて、修行僧たちが、よしやってみよう、坐ってみよう、よし腰を立てようという思いが内から湧き上がって欲しいのであります。

それには、私の出来る事は、修行僧たちと共に学ぶことなのであります。

いつものラジオ管長日記で行っている毎回の呼吸瞑想の短い指導には、「足に力を入れて起ち上がるぞという気持ちで、お尻をもちあげて」と言っているのは、起ち上がろうという勢いによってこそ、腰が立つと学んでいるからなのであります。

横田南嶺

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