かなしみ
多くの方にとって、お坊さんに接するのは、お葬式や法事の時だと言われるのであります。
葬式仏教などと揶揄されることもありますが、葬儀も法事も大切なことであります。
しかしながら、円覚寺のような本山になりますと、葬儀を担当する部が決まっていまして、管長が葬儀に出ることはほとんどありません。
法事に出ることもほとんど無いのであります。
では、「お前はいったい何をしているのか?」と問われそうであります。
何をしているのかというと、朝早く修行僧たちと共にお経を読み、坐禅して暮らしているのであります。
それで、生活させてもらっているのですから、有り難い、もったいないことであります。
そのような私ですが、五月になって二件も葬儀に関わることになりました。
一つは、私が葬儀を行う訳ではなく、よそのお坊さんが務める葬儀なのですが、知人の奥様がお亡くなりになったというので、駆けつけたのでした。
同業者が葬儀に参列すると嫌がられることもありますので、あらかじめ葬儀の始まる前に行って、読経だけ勤めてきたのでした。
知人の奥様はまだ三十代でありました。
数年前から病であることは洩れ聞いていましたが、まさかお亡くなりになるとは思いもしませんでした。
葬儀というのは、突然日程が決まりますので、私のように予定表にいろんな所用が書かれている者にとっては、調整をしなければなりません。
それでも、そんなに若くして亡くなったというと、ご主人の悲しみも察するにあまりありますし、たしかまだ幼いお子さんがいたはずだと思って、とにかく馳せ参じてお経をあげてこようと思って出掛けたのでした。
残された子は、この春小学校に入ったばかりとか、涙が滲みました。
祭壇の前で、短いお経ですが、心を込めてあげて、お悔やみだけ申し上げたのでした。
お悔やみといってもこういう場合は、言葉にならないものです。
ただ一言「泣いてあげて」とだけ伝えました。
こんな時には、悲しむだけ悲しんで、泣くだけ泣くしかありません。
そのあと数日して、早速ご主人からはご丁寧なお礼状をいただきました。
しっかりしたお手紙を拝読して、きっとこの悲しみを胸に抱いてたちあがってくれることだろうと確信しました。
もう一方の葬儀は、こちらは円覚寺派のお寺の和尚さんの葬儀であります。
この寺の和尚さんの葬儀を務めるのは、管長の役目なのであります。
この和尚さまは、私が鎌倉に来てからというもの、ずっとお世話になってきた和尚さまでありました。
私などのように、滅多に葬儀を勤めない者にとって、葬儀を勤めるのはたいへんなことであります。
法語いう、引導の文章を漢文で作らなければなりません。
作ってそれを暗唱して唱えます。
亡くなった方が親しい方だと、悲しみのあまり引導も忘れそうになるのです。
そんなに悲しんでどうすると思われるかも知れませんが、それが自然だと思っています。
馬祖禅師が説かれた「平常心」というのは、なにも波立たない心ではなくて、悲しい時は悲しいまま、嬉しい時は嬉しいままの、ありのままの心のことです。
ですから、ありのままに悲しめばいいと思っているのです。
坂村真民先生の詩を思います。
かなしみ 坂村真民
かなしみは
わたしたちを強くする根
かなしみは
わたしたちを支える幹
かなしみは
わたしたちを美しくする花
かなしみは
いつも枯らしてはならない
かなしみは
いつも湛えていなくてはならない
かなしみは
いつも噛みしめていなくてはならない
あの哲学者西田幾多郎先生は、
「哲学の動機は「驚き」ではなくして、深い人生の悲哀でなければならない」
と仰せになっています。
西田幾多郎先生の悲しみとは何かというと、ご生涯でなんと、八人の子供のうち五人を亡くしているのです。
西田先生は、
「ただ亡児の俤(おもかげ)を思い出ずるにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。
人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。
時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。
何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。
折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。
この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである」
と随筆集「我が子の死」に書かれています。
「昨日と今日は偶然並んでいただけでした。 今日と明日は突然並んでいるのでした。だから明日のない時もあるのです。」という永六輔さんの言葉も思い起こします。
今年に入ってからというもの、お世話になった寺田一清先生、そして村上和雄先生がお亡くなりになり、更に今月二つの葬儀に関わって、悲しみを新たにしています。
人は、この「かなしみ」を噛みしめて、一日一日を大切に生きてゆくものであります。
あの弘法大師ほどのお方でも、お弟子がお亡くなりになった時には
哀しい哉 哀しい哉 哀れが中の哀れなり
悲しい哉 悲しい哉 悲しみが中の悲しみなり
哀しい哉 哀しい哉 復た哀しい哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉
と仰せになっているほどなのです。
森信三先生の歌も思います。
悲しみの極みというもなお足りぬ
いのちの果てにみほとけに会う
横田南嶺