求める、目覚める、伝える
求める 目覚める 伝える
の三つに分けられると思いました。
仏教的な言葉にすると、
求道、正覚、伝道
となります。
まずは、求めることから始まります。
お釈迦様も、王宮の暮らしには満足ができずに、人は死ぬものであり、死から逃れることはできないのに、死を忘れて暮らしていることに疑問を抱いて出家して道を求めたのでした。
そして、菩提樹下に坐禅して、正しい目覚めを得たのでした。
あとは、その目覚めた真理を多くに人に伝えようと勤められたご生涯なのです。
大拙先生はいったい何を求めたのかというと、
『鈴木大拙随聞記』には、
「何不自由なく、のんびりと学校に通っている同じ年配の者を見ると、世の中にはどうしてこんなに不公平なことがあるのかと、わしは考え込んでしまったものだ」
「家の不幸、これが第一だ。わしは人生にはなぜこんなに不公平があるのかと考えた。また、人生には困ったこともたくさんあるものだと思った。子どものときには、母親の感化もあって、“あきらめる”ということをだいぶ考えたぞ」
「不公平をつきやぶりたいとも思った」
「理屈ではどうにもならないものがある。それは何か、分別理性を超越した何かがある、それを明らかにしたい」
「わしが円覚寺にきたのも、わかりたい一心だった。それ以外には何もなかった」
大拙先生は、あれほどの名をなした大学者でありながら、満足な学校教育を受けることができませんでした。
父親が早くに亡くなったことから、小学校も卒業できず、金沢の第四高等学校も中退されています。
四高時代に、西田幾多郎とめぐり合っているのです。
そんな不遇な少年時代を過ごしながら、この不公平を突き破りたいと思い、「分別理性を超越した何か」を求めたのでした。
はじめは手探りで求めたのだと思います。
上京して、明治二十四年に円覚寺に行って、今北洪川老師に出逢います。
洪川老師には、先見の明があって、円覚寺に住していち早く、一般の人たちの為に寺の門戸を開放していたのでした。
そこに東京からも多くの人が参禅に来ていたのでした。
大拙先生も、何かがあるのではと思って円覚寺を訪ねたのでしょう。
洪川老師に出逢って、「何かがある」というのが確信に変わったと思われます。
それはひとえに洪川老師という方の人格に触れたからであります。
その時の感想を『今北洪川』には、次のように書かれています。
「今覚えているのは、いつかの朝参禅というものをやったとき、老師は隱寮の妙香池に臨んでいる縁側で粗末な机に向かわれ、簡素な椅子に腰かけて、今や朝餉をおあがりになるところであった。
それが簡素きわまるもの。
自ら土鍋のお粥をよそってお椀に移し、何か香のものでもあったか、それは覚えていないが、とにかく土鍋だけはあった。
そしていかにも無造作に、その机の向こう側にあった椅子を指して、それに坐れと言われた。
そのときの問答も、また今全く記憶せぬ。
ただ老師の風貌のいかにも飾り気なく、いかにも誠実そのもののようなのが、深く我が心に銘じたのである。」
後年、大拙先生は、洪川老師のことを「至誠の人」と表現されていますが、この至誠の人が実践した禅には何かあると確信したのでしょう。
残念ながら、洪川老師は、まもなくお亡くなりになり、大拙先生は、洪川老師の後を継がれた釈宗演老師に参禅することになりました。
釈宗演老師の出会いによって、大拙先生のご生涯は大きく飛躍し発展してゆきます。
それまでは、不公平だ不遇だと思っていたのでしょうが、宗演老師という優れた人物との出会いによって、人生が開けていったのでした。
宗演老師のお力添えで、大拙先生は渡米することになりました。
そのアメリカに渡る前の臘八大摂心で大きな体験をしました。
臘八大摂心というのは、十二月の一日から八日までお釈迦様のお悟りにあやかって、集中して坐禅する修行のことです。
大拙先生も修行僧たちと共に坐禅されたのでした。
『世界の禅者 鈴木大拙』には次のように書かれています。
「アメリカに行けばもう参禅はできぬ。渡米前に片付けなくては」
という思いで坐禅されたのでした。
そして、
「臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明りの中の松の巨木と自己との区別をまったく忘じ尽くした、「自他不二」の、天地と一体の自己を体得したのである。」
というのです。
現実の世界は、分別の世界であり、差別の世界でありますが、それを超越した無分別、無差別、平等の世界を体験したのでした。
それは、言葉を換えれば空の世界であります。
これが大拙先生の目覚めであります。
その目覚めた、無分別の世界を多くの人に伝えようという願いを起こされたのであります。
明治三十四(一九〇一)年一月二十一日付の西田幾多郎に宛てた手紙には、
「予は近頃、衆生無辺誓願度の旨を少しく味わい得るように思う。
大乗仏教がこの一句を四誓願の劈頭にかかげたるは、直に人類生存の究竟目的を示す。
げに無辺の衆生の救うべきなくば、この一生、何の半文銭にか値いすとせん」
と書かれています。
この目覚めた真理を多くに人に伝えたいという願いなのであります。
そしてそれからは九十五歳でお亡くなりになるまで、
「もっと本を書きたい。英語で本をよけい書いている人がいるが、それらの人は東洋を知らない。これからは世界は一つになるのだ。多様性を持ちながら一つになる。だから、東洋を大いに知らせたい。知らせるためには、もっと書かねばならん」(『鈴木大拙随聞記』より)
というように精力的に活動されたのでした。
大拙先生のご生涯を、「求める、目覚める、伝える」という、仏教で説く「求道、正覚、伝道」という三つに分けて考えてみました。
求道を、もう少し分けると、「発心と修行」になると思います。
求める心を発して修行して、目覚めを得て、そしてそれを人に伝える、これが仏道であると言えます。
横田南嶺