今年の紅葉
鎌倉は海に近いので、台風が来ると、その風向きによっては、潮風を受けてしまって、木の葉が皆茶色になってしまうことがあります。
「塩害」と呼んだりしています。
そんな年には、紅葉は全くだめであります。皆茶色の枯れ葉になるだけです。
幸いにも今年は、台風が来なかったので、紅葉は期待できるかと思っていましたが、この十一月は異様に暖かくて、紅葉は十分ではありません。
寺に住んでいる者の感覚ですが、やはりグッと冷えこんでこそ、紅葉も赤く染まるように感じています。
十一月も終わろうかという頃になりましたが、円覚寺の舎利殿のある門の前の紅葉はまだであります。
もっとも寺に住んでいますと、紅葉を美しいと思えることはほとんど無くて、紅葉を見ても、あああれが全部地に落ちて、明日の朝掃除をしなければとしか思わないのであります。
やはり、よその寺の紅葉を眺めるのに如かずであります。
紅葉の頃になると、いつも思い出す坂村真民先生の詩がございます。
一切無常
散ってゆくから
美しいのだ
毀れるから
愛しいのだ
別れるから
深まるのだ
一切無常
それゆえにこそ
すべてが生きてくるのだ
という詩です。
何の解説もいらないほど、明解であります。
どれも説明不要で、皆真理であります。
真理は単純で明解、そして誰にも分かるものだと私は思っていますが、この詩などまさにその通りなのです。
分かりやすいけれども、実に奥深いのであります。
散ってゆくから美しいのです。
あの紅葉が、いつまでもあの木の枝にずっとくっついたままであれば、人は紅葉を愛でることもしないでしょう。
もう散ってゆくからこそ、「ああきれいだ」と感嘆するのです。
壊れるから愛しいのです。
お茶碗でも、楽の茶碗や萩の茶碗などは、壊れ易いものです。
それなればこそ、慎重に心して扱います。
プラスチックの茶碗を作れば、壊れる心配はないでしょうが、それでは「愛おしむ」という思いは育まれません。
別れるから、深まるのです。
別れのないことを誰しも願うのでしょうけれども、別れがやって来るのは世の定めです。
そして、その別れが来るからこそ、出会いが深まるのです。
今のコロナ禍にあって、家族にも思うように会えないという方もいらっしゃるかと思いますが、こういう時があってこそ、一層愛情が深まるのだと受けとめたいものであります。
それから、更に建仁寺の管長であった竹田益州老師が「死」について語った次の言葉も、紅葉を見るたびに口ずさみます。
「初夏の青葉がいつしか紅葉となり、晩秋になって霜にふれて赤々と映え、ああ美しいと見とれているうちに、やがて風もないのにはらはらと散っていく。
自分の一生もこれとあまり違わぬと思う」
禅の道を究められた高僧であらせられますが、淡々とした生死観であります。
なんの気負いもてらいもない無心無我の心境でありましょう。
一枚の葉っぱが精一杯日の光をうけて育って、最後は風に任せてハラハラと散る、これでいいのだと思うと、肩の力が抜けます。
そして、最後の思う一句が、
どこの土に なろうとままよ 落ち葉かな
であります。
横田南嶺