人をして人たらしめるもの
「真の人とは普通にいう人のことでなくて、人をして人たらしめるところの存在理由とでもいうべきか、いわゆる見聞覚知の主人公である。
深い意味でいう心または心法である。
なんらの形体をそなえていなくて、十方を通貫しているところのものである。
目で見るもの、耳で聞くもの、足で歩くもの、手でつかむものである」
さて、この人をして人たらしめるものとは、いったい何でありましょうか。
この私を私たらしめているのは何か、僧堂の雲水たちと話し合いました。
私がここにこうして存在しているのは、まずなんと言っても両親の出会いがあってこそでありましょう。
ただ単に出合って生まれただけでは、今ここにこうしておられません。
生まれるということにしても、多くの力が関わっています。
月の満ち欠けの影響もあると言われます。
第一こうして息をしているのも、空気があってこそです。
大陽のはたらきははかりしれません。
大宇宙の中に地球という星が、絶妙な位置で回転していることもございます。
もう少しでも大陽に近ければ、熱くて生命は存在しませんし、遠くも寒くて生きてはいられないのです。
精妙なバランスの中を生きています。
地球の引力も関わっています。
多くの関わりの中に、あるとしか言いようが無いという意見がありました。
とても考えても考え尽くせないという者もいました。
偶然という奇跡とだと言った者もおります。
一つ一つ偶然としかいいようのない出会いが、重なりあって奇跡的に今ここに生きているのであります。
そんなこんなことを考えてみると、私を私たらしめているものというのは計り知れません。
考えても考え尽くせないというのは、良い気づきです。
古人は、「説似一物即不中」と答えました。「せつじいちもつそくふちゅう」と読みます。
南嶽禅師の言葉です。
南嶽禅師は六祖慧能禅師に参じて、六祖から、「何者がここに来たのか」と問われて、それから八年間考え続けました。
その果てに得た答えが、この言葉でした。
なにかこれであると言ったらもう当たらないのです。
法眼禅師は、某甲詞尽き理絶すと述べています。
何ともかとも言う事ができない、言葉もなくなり、理論も尽きたというのです。
言葉もなくなり、理論の尽きたところで、「一切現成」なのです。
一切がありのままに現前しているのです。
とても言葉では言い尽くせない、如何なる理論でも表せない、不思議なるはたらきの中に生かされて、今見たり聞いたり感じたりしています。
それが無位の真人であり、お互いの主人公であります。
この事実に目覚めて、如何なる場においても主体性を持って、生き生きと生きるのが臨済禅師の教えであります。
横田南嶺