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臨済宗大本山 円覚寺

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2020.11.28
今日の言葉

人をして人たらしめるもの

鈴木大拙先生の『東洋的な見方』のなかに、臨済禅師が説かれた一無位の真人について、次のように述べられています。

「真の人とは普通にいう人のことでなくて、人をして人たらしめるところの存在理由とでもいうべきか、いわゆる見聞覚知の主人公である。

深い意味でいう心または心法である。

なんらの形体をそなえていなくて、十方を通貫しているところのものである。

目で見るもの、耳で聞くもの、足で歩くもの、手でつかむものである」

さて、この人をして人たらしめるものとは、いったい何でありましょうか。

この私を私たらしめているのは何か、僧堂の雲水たちと話し合いました。

私がここにこうして存在しているのは、まずなんと言っても両親の出会いがあってこそでありましょう。

ただ単に出合って生まれただけでは、今ここにこうしておられません。

生まれるということにしても、多くの力が関わっています。

月の満ち欠けの影響もあると言われます。

第一こうして息をしているのも、空気があってこそです。

大陽のはたらきははかりしれません。

大宇宙の中に地球という星が、絶妙な位置で回転していることもございます。

もう少しでも大陽に近ければ、熱くて生命は存在しませんし、遠くも寒くて生きてはいられないのです。

精妙なバランスの中を生きています。

地球の引力も関わっています。

多くの関わりの中に、あるとしか言いようが無いという意見がありました。

とても考えても考え尽くせないという者もいました。

偶然という奇跡とだと言った者もおります。

一つ一つ偶然としかいいようのない出会いが、重なりあって奇跡的に今ここに生きているのであります。

そんなこんなことを考えてみると、私を私たらしめているものというのは計り知れません。

考えても考え尽くせないというのは、良い気づきです。

古人は、「説似一物即不中」と答えました。「せつじいちもつそくふちゅう」と読みます。

南嶽禅師の言葉です。

南嶽禅師は六祖慧能禅師に参じて、六祖から、「何者がここに来たのか」と問われて、それから八年間考え続けました。

その果てに得た答えが、この言葉でした。

なにかこれであると言ったらもう当たらないのです。

法眼禅師は、某甲詞尽き理絶すと述べています。

何ともかとも言う事ができない、言葉もなくなり、理論も尽きたというのです。

言葉もなくなり、理論の尽きたところで、「一切現成」なのです。

一切がありのままに現前しているのです。

とても言葉では言い尽くせない、如何なる理論でも表せない、不思議なるはたらきの中に生かされて、今見たり聞いたり感じたりしています。

それが無位の真人であり、お互いの主人公であります。

この事実に目覚めて、如何なる場においても主体性を持って、生き生きと生きるのが臨済禅師の教えであります。
 

横田南嶺

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