真実の自己
しかし、捨てる、放つということは、一面からみれば、失い、無くすことなのですが、もう一面から見ればすばらしい世界に気がつくことでもあります。
米沢英雄先生の『信とは何か』に次のような言葉があります。
「私たち人間は生きて行く上に、いろんな物を身にくっつける。
ところが、釈尊はそうした外からの添加物を一つづつ取り除いていかれた。
王位も捨てられた。財産も捨てられた。奥さんも子どもさんも捨てられた。
こうして引き算をしていって、最後に残るものは何か、これをとり去ってしまったら人間とはいわれぬというもの、そういうものを明らかにしようと決意して実践されたのが釈尊であろうと思うのでございます」
というのです。
これは、昨日小欄で紹介した坂村真民先生の「ダカラワタシハ」の詩に通じるものです。
そこから更に米沢先生は、
「その最後に残ったものが何かということでございますが、それを私の言葉でいわせていただきますと、自己、真実の自己というものでございます」
と実に端的にお示しくださっています。
「そうしますと、釈尊というお方は、人間にとって一番大切なもの、これを取り去ると人間とはいえないもの、真実の自己を明らかにするために生まれてこられたお方であるといえるのではないでしょうか」
捨てるということは、真実の自己を明らかにすることにほかならないのです。
「……その真実の自己は、みんなが持っておられるものであって、持っておりながら、忘れているものである。そういうところから、それに気づかせようとて、釈尊が仏法をお說きになったわけであろうと思うのございます」
真実の自己、盤珪禅師の言葉で申し上げると不生の仏心を持って生まれながら、見失っている、それを気がつかさせるために教えがあります。
すべてを捨て去って、明らかになる境地を米沢先生は分かりやすく説かれています。
「ここに存在しているだけですでに満足である。息が出ているだけで満足であるという境涯」
と端的に示してくださっています。
「息がでているだけで満足である、これは生かされて生きているという私たちの存在の事実なんですが、ここに皆さんが立っていられるわけで、どこを踏みはずしても、ここを踏みはずことだけは絶対にないというわけであります」
息ということを手がかりにして説いてくださっていますが、生きているという事、命あるということにほかなりません。
「息がでているだけで満足というところに立っておりますと、後からくるものはおつりばかり、過分なものばかりでして、過分なものに対して頭を下げることが出来ると思いますね」
米沢先生は、御念仏の教えに親しまれた方でありますから、自然と有り難い、頭が下がるという境地を示してくださっています。
因幡の源左さんが、何があっても「ようこそ、ようこそ」と受け取られたのも、同じことなのです。
捨てる、放つことは、真の自己に目覚め、より豊かな心の世界が開かれるのです。
横田南嶺