捨てる、放つ
「仏教は―宗教は―真裸になることを要求します。
われらは大抵日常いろいろのものをこの身に着けています。
そうしてそれはみな自分に本来所属したものではありません」
という一文がございます。
捨てること、放つこと、裸になること、これは仏教、禅の究極であると思います。
また浄土門においても一遍上人などは、「捨てること」を説いて実践された方であります。
大拙先生の文章を読み進めます。
「たとえばわれらは着物を着けています。
これはもともと寒さ凌ぎのためですが、それがそれ以外の意味を
持つようになって、自分を自分ならざるものにするようになりました」
とありまして、たしかにその通り、本来は寒ささえ凌げればよかったはずなのです。そう思えば随分楽になるはずですが、実際にはそうはまいりません。
「馬子にも衣裳ということがあります」
と大拙先生は手厳しく仰せです。私などが「法衣」というものを身にまとうのも、「馬子にも衣装」でありましょう。深く反省します。
「それから家屋でありますが、これも実用以外のものになりました。
自分の富とか社会的地位とか政治的権力とかいうものを誇示することになりました」
これまたその通りであります。雨風さえ凌げればよかったはずが、飾り物の要素も強くなっています。
「そうしてこの権力・地位・財産というようなものも、もとより自分のものではないのです、附属物なのです。
そんなものがあっても、それがために自分の真価値は一分も増すものではないのです」
ところが、一生懸命に努力して得た地位や財産などは、まさしく自分のものと思い込んで執着してしまいます。
いや、それこそが自分自身と思い込むのでしょう。
「少し考えてみれば、それは無用の長物だとさえもいい得るものです。一たび生死岸頭に立つときはこの身体さえも何の惜し気もなく捨て去るのです。」
これまたまさしくその通り、誰しも理論の上では分かるのでしょうが、実際には受け入れ難しいものです。
「霊性的自覚の人はすべての外来底には捉えられません」
と大拙先生は指摘されている通り、外来底を捨てる、放つことこそが、真の自己に目覚めることとなるのです。
お釈迦様は、衣食住のすべてを投げ捨て、出家の道を歩まれました。
しかし、いつの間にか、この道が、自分を飾る為のものになってはいないかと反省します。
そこで、やはり昨日紹介した八木重吉の詩を思うのです
自分がこの着物さえ脱いで乞食のようになって神の道に随わなくて好いか考えの末は必ずここに来る
そしてそれは、坂村真民先生の詩の心なのです。
ダカラワタシハ
アナタハナニモカモ
ステラレタ
一切ノ地位モ
一切ノ財宝モ
一切ノ欲望モ
ステテシマワレタ
糞掃衣一ツニナッテ
出テコラレタ
サイゴハソレモ脱イデ
ニレンゼン河デ
ナニモカモオトシテシマワレタ
ダカラワタシハ
アナタニツキシタガイ
アナタノアトヲ
シタッテアルクノデス
坐禅は、何かを得ようというものではありません。
捨てる、放つことにほかなりません。
一切を捨てて、ただ坐るのであります。
何ものでもない裸の自分で坐るのです。
横田南嶺