ようこそ、ようこそ
「なんともない」、その後に続く言葉は何かと思うと、「なんともない、だいじょうぶ、だいじょうぶ」かなと思います。
源左さんは、いつも「ようこそ、ようこそ」と言っていました。なにがあっても「ようこそ、ようこそ」というのが口癖であったようです。
お念仏の信心をいただいて、毎日田畑を耕して「ようこそ、ようこそ」と言っているというと、いかにも長閑で穏やかな感じがします。
ところが、源左さんのことを少し調べると、なにがあっても「ようこそ、ようこそ」というのが実は並大抵のことではないと分かります。
源左さんは、天保十三年(一八四二)の生まれ、昭和五年(一九三〇)にお亡くなりになっています。八九歳の長命でした。
十八歳の時に、一緒に畑仕事をしていた父が、急に具合が悪くなって、その日の晩に亡くなりました。
息を引き取る間際に、「おらが死んだら親様を頼め」と源左さんに言い残されました。親様とは阿弥陀様のことです。
それから、熱心にお寺に参って聞法の暮らしが始まりました。
三十歳の頃、山に草刈りにいって、重い草の束を牛の背負わせた時に、ふっと気がついたというのです。
それからというもの、なにがあっても「ようこそ、ようこそ」と腹を立てることはなかったと言います。
ある時に、自分の畑の芋を盗まれると、その後は泥棒の手を怪我させてはならないと、わざわざ泥棒の為に鍬をそばにおいて置いたと言います。
しかしながら、八十九年の生涯は、苦難に満ちたものでした。
二人の息子を亡くされています。
長男の竹蔵は、長女を亡くし、水害で自分の田畑のほとんどを流されてしまって、精神に異常を来してしまいました。そして四十九歳で亡くなりました。
やがて次男の万蔵も、養子に出て京都に行っていたのですが、何が原因であったのか精神に異常を来して、兄を追うように亡くなっています。
養子先で苦労でもあったのでしょう。
老齢の源左さんが、精神のおかしくなってしまったわが子を京都まで迎えにいってふるさとに連れて帰ってきたのでした。
そんな時の心情など、察するにあまりあります。
更に追い打ちをかけるように、二度の火災に遭って家は丸焼けになりました。一度目は類焼、二度目は火元でした。
それでも源左さんは「これで前世の借銭が少しでも戻させてもらった」と言っていたといいます。
更に信頼していた人にだまされてしまい、自分の田畑も山林も手放さざるを得なくなってしまったのでした。
これほどの苦難に遭いながらも、そのうえでなおも「なんともない」「ようこそ、ようこそ」と言って感謝していたと言いますから、信心の強さというものは計り知れないと思います。
任せきった強さとでも言いましょうか。
念仏は易行と言われますが、難行でもあります。
横田南嶺