なんともない
鈴木大拙先生の『神秘主義』(岩波文庫)を読んでいると、後半は妙好人浅原才市の言葉が多く引用されています。
浅原才市は、一八五〇年(嘉永三年)石見国の小浜、今の島根県大田市温泉津町小浜に生まれ、一九三二年(昭和七年)に亡くなっています。
郷里の小浜で下駄職人となり、仕事の合い間などにかんな屑や木片、紙片などに自分の心境を書き綴っていました。その数は七千首を越えると言われます。
大拙先生がその境地を高く評価されたのでした。
そのなかで「なんともない」という言葉に注目しました。
こういう言葉があります。
なんともない うれしゆもない
ありがともない
ありがとないのを くやむじやない
というのです。
更にこういう言葉がありました。
ありがたいのわ みなうそで
なんともないのが ほんのこと
これほど安気なことわ ない
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
というのです。
有りがたいというのは、私どもでもよく言うことです。
有りがたいと受けとめる、感謝の心は大切であります。
しかし、浅原才市はそのありがたいというのはうそだというのです。
どういうことなのかなと思っていましたが、
同じく妙好人として知られる因幡の源左さんにこんな逸話がありました。
源左さんは家のお内仏のまえで、よく居眠りをしていたそうです。
仏さまの前で行儀が悪いと咎める人がいると、源左さんは「親さんの前だけな、なんともないだいなあ」と答えていたという話です。
源左さんは毎朝午前一時か二時には起きてお勤めをして、日中はひたすら野良仕事に精出しておられた念仏者です。
仏さまの前で居眠りしてしまうこともあったのでしょう。
有りがたいというと、なお仏さまと我との隔てがあるようですが、なんともないといって居眠りをしているのは、仏さまと一体になっている様子です。
あたかも母親の胸に抱かれて眠る赤ん坊のような「なんともない」安らいだ様子なのでしょう。なんのはからいも分別もありません。
『臨済録』などでは、有りがたいなどという言葉はないのですが、よく出てくる「無事」というのは、この「なんともない」安らいだ心境でもあるかと思ったところであります。
そうしますと、無事は単に求める心が止んだというだけでなく、仏と一体となって安らいだ様子だと受けとめることができました。
横田南嶺