仏との一体感
『安心決定鈔』のなかに、次のような意味のことが説かれています。大法輪閣「『安心決定鈔』を読む」の訳を参考にして、更に抄訳してみます。
「体を極小の物体に分けても、阿弥陀様の功徳に染まらないものは全く無い。ですから阿弥陀様と私たちとは一体である……
心は一瞬毎に起こっては消え、起こっては消えてを繰りかえしていますが、心を一瞬毎に細かく分析してみても、阿弥陀様のお徳が行き渡っていないところはないので、阿弥陀様と私たちとは一体である。
阿弥陀様のこの上のない慈悲の胸のうちに、私たちは抱かれて満ちているので、既に阿弥陀様と私たちは一体である。」
というのです。
『安心決定鈔』では機法一体ということが繰り返し説かれます。
機とは私たちは阿弥陀様を信じ念じる心であり、法とは阿弥陀様が私たちを救ってくださる力であります。これが一つなのです。
赤ん坊が、母親の胸に抱かれて、オギャーオギャーと母乳を求めて泣くのと、母親が乳をあげようと思う心とは一体なのです。
禅の馬祖道一禅師の言葉に、
「一切の生きとしいけるものは、みな永遠の昔よりこのかた、法性三昧から出ることなく、常に法性三昧の中にあって、服を着たり、
ご飯を食べたり、おしゃべりしたりしている。私たちの六根のはたらきやあらゆる行為はすべて法性である。」
というのがあります。
法性とは仏教用語で、哲学的要素が強いように思われますが、仏さまと考えていいと思います。
禅では阿弥陀様とは説かないにしても、言わんとしているところは一つのように思われます。
大いなる仏心の海に抱かれている、阿弥陀様の大悲の胸に抱かれていると受けとめて、私たちの心と体の活動のすべてが阿弥陀様と一体、法性と一如だというのであります。
しかしながら、馬祖禅師の説く所によれば、
「しかし、私たちはこの本来のありように返ることができずに、外に悟りをもとめて追いかけまわる。
そうすると本来一如の心を失い様々な感情がむやみに起こって、迷い苦しみを作り出してしまう。」
というのであります。
折から、岩波文庫の鈴木大拙先生の『神秘主義』が刊行されました。
その中に「永遠の光の中に生きる」という章があり、こんな言葉がありました。
「永遠の光の中に生きることは、万物の一体性と、全体性の中に入り込み、その事実に即して生きることに他ならぬ。
これこそ日本人が、“ものごとを(ありのままの状態において)そのまま見る”ということなのである。
またこれは、ウィリアム・ブレークの言葉でいうと、“掌の平に無限を掴んでみよ。すると永遠とは一時の間だ”ということでもある。」
永遠の光とは阿弥陀様と受けとめることができます。万物との一体性とは、法性の中に寝起きしているという実感です。
仏さまの大悲の胸の抱かれているという思い、仏との一体感、本来は赤ん坊が無心に母の胸に抱かれていたように皆持っていたのです。
それが失われているので、静かに坐禅して、大いなるものに抱かれていることを思い起こすのであります。
阿弥陀様を念じるのも、観音様を念じるのも同じことなのです。
横田南嶺